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SNS投稿やYoutubeに思慮に欠けるコメントをする人は…


 昨今「空気を読む」の価値が低下しているように思う。2018年6/12の投稿でも触れたが、「空気を読む」については同調圧力の側面が少なからずあり、他人と同じではない考えや主張、多数派に対して異論を唱える行為が「空気が読めない」として否定されることがあるので、そんなことを想定した「空気を読まない」ことを推奨する主張がしばしば行われることで、「空気を読む」の価値が低下してしまっているように感じる。
 「空気を読む」とは、コトバンク/デジタル大辞泉には、
 その場の雰囲気から状況を推察する。特に、その場で自分が何をすべきか、すべきでないかや、相手のして欲しいこと、して欲しくないことを憶測して判断する。
とある。「空気」に関しては「その場の雰囲気」と解説されているが、実際に空気を読む際に察しているのは場の雰囲気ではなく、そこにいる人達の気持ちや考えだろう。


 つまり「空気を読む」には、対峙した人のことを慮る(おもんぱかる)、相手がどう考えているのか、どんな風に感じるか等を察するという側面もある。勿論それでも「相手を慮れ/思いやれ」と強制することは、結局同調圧力になりかねない。だから基本的には「空気を読む」ことは個人個人が自分を戒めるのに用いる概念だろう。しかし個人的には「思いやりを持とう」という意味で「空気を読もう」と啓蒙するのはアリだと思う。
 但し「空気を読もう」にしろ「思いやりを持とう」にしろ、バランスを欠いたり恣意的に解釈したりすると、途端に単なる同調圧力に成り下がる危険性も孕んでいるので、啓蒙する側にもされる側にも一定の注意は必要だ。押しつけがましくなってはならないし、押しつけがましい啓蒙を受け入れる必要はない。

 「他人を思いやる」ことは人間が生きていく上で確実に必要なことだ。他人を思いやらない人は十中八九他人に思いやって貰えない。他人を尊重しなければ、自分も同様に尊重されない。ネコ科の一部の種のように、基本的に集団を作らずに1匹で生きていくのであれば、他者を思いやる必要も尊重する必要もないかもしれない。しかし現在の人間の社会で誰ともかかわらずに一生を終えることはほぼ不可能に等しく、関わりあいの深さには個人差はあるだろうが、どうやっても他者との関わりのある社会生活を送らねばならない。

 日本語には「親しき仲にも礼儀あり」という慣用句がある。家族や友人等の近しい・気の置けない間柄であっても最低限の礼節は必要、という意味だ。「気の置けない」とは、気を遣う必要がない程親密であるという意味だが、家族だろうが親友だろうが、結局は自分とそれ以外には違いなく、「自分以外の人」という意味で厳密に言えば他人である。他人である以上最低限の尊重は必要だ。
 「親しき仲に”も”礼儀あり」と言うのだから、「親しくない間柄には当然礼儀は必要不可欠である」という前提がこの慣用句の背景にある。


 ここでやっとタイトルに辿り着く。昨今匿名で利用できるので身元バレし難く、相手の顔をこちらの顔もお互いに見えない、SNSでのリプライ・Youtubeのコメント欄等には、「ダサwwww」「それでかわいいつもりかよwwwww」などの心無い書き込みがやたらと目に付く。SNSやYoutubeの、という意味で「昨今」としたが、ネット上のコミュニケーションという意味でいえば、ネット黎明期からずっとだろう。
 自分は自動車文化全般に興味があり、SNSやYoutube等でそれぞれカスタムを紹介する人が投稿する画像やムービーを見るのが好きだ。しかし、その手の投稿には多かれ少なかれ、ほぼ確実にと言っていい程、前述のような心無い、ただただ貶すだけのコメントが見られる。カスタムカー/バイクに限らず、例えばファッションだったり、模型だったり、イラストだったり、音楽だったり、写真だったり、趣味系の投稿にはほぼ間違いなくその手の心無いコメントが見られる。趣味系の投稿をしていてその手のコメントを受けたことがない人はいないと断言できそうなくらいの確率だ。
 「ダサwwww」「それでかわいいつもりかよwwwww」のような、ただただ貶すだけの反応を、見ず知らずの他人に対してネットでする人は、同じ反応を相手に対峙してもすることが出来るのだろうか。実社会にも少なからずその手の人、見ず知らずの人に面と向かって心無い言葉をぶつける人というのは存在するが、概ね「思いやりのない人」「空気の読めない人」と認識される。
 例えば、自分が友人と居酒屋で飲んでいたとして、隣の席の客が互いの服装のこだわり等について話していたとする。もしその人達の服装が自分や友人の趣味とはかけ離れていて全然魅力的に見えない、寧ろ格好悪くすら見えたとしても、決して「ダサwwww」「それでかわいい/カッコいいつもりかよwwwww」と、当事者らに聞こえるように言わないだろう。それは単に趣味が合わないというだけのことであって、彼らが好きな格好をすることを尊重する必要性が確実にある。もし友人が空気を読まずに、若しくは思いやりもなく「ダサwwww」「それでかわいい/カッコいいつもりかよwwwww」なんて当事者らに聞こえるように言ったら、殆どの人はその友人に「馬鹿なことは止めろ」と注意するか、彼との付き合い方を考え直すかするだろう。
 現実では見ず知らずの人には確実に言えないことなのに、面と向かわない状態のネットだと何故か言えてしまう人というのがそれなりにいる。現実でも同じことをしているのなら確実に嫌われ者だろうし、現実では出来ないのにネットではするという人ならば、単なる卑怯で哀れな奴ということになるだろう。


 ネットに限らず、自分の作品等を広く公開する自由もあれば、それを見た/聞いた人にも感想を述べる自由はある。例えば、その作品に対して対価を支払った場合、つまりある程度商業的な行為であれば尚更だ。見た映画について「面白くなかった」と言うことは何も悪いことじゃない。食べたラーメンの味について「美味しくない」と言うこと、遊んだゲームについて「楽しめなかった」と言うこと、音源を買って聞いた/ライブに足を運んで聞いた曲について「いまいちだった」と言うこと、つまり否定的な感想を述べること自体に問題があるわけではない
 但し「この映画作った奴は脳ミソ足りてないんじゃねーの?」のような表現をする自由はあるのか、については結構微妙なラインのように思う。例えば、1800円支払って見た映画が、10分足らずの尺でずっと白と黒の画面が交互に表示されるだけ、のような内容ならばそんな風に言いたくなるかもしれない。しかしそんな極端なことはほぼありえない。何故なら、そんな風変わりな映画なら見る前に話題になっているだろうから、ある程度分かった上で見ることになるはずだ。また、「脳ミソが足りない」なんて明らかな罵倒をしなくとも、「1800円分には到底値しない」とか「作った人の意図が分からない」など、別の表現での批判が出来るだろうから、個人的には「この映画作った奴は脳ミソ足りてないんじゃねーの?」は批判ではなく単なる罵倒だと思う。

 また、商業的な作品ではなく、個人が全くの趣味としてネット等に投稿しているものは、対価を支払って見る/聞く/食べる/体験するものとはまた少し話が変わるだろう。例えばYoutubeの動画なら趣味が合わない人の動画を見る必要はない。わざわざ趣味の合わない人の動画を見て相手を罵倒する必要はない。対価も払っていないのだから金銭的な損害もない。中には「見てみないと趣味が合うかどうか分からない」と言う人もいるかもしれないが、「趣味が合う」と感じて見たものの結果として趣味が合わなかったのであれば、それは自分が判断を誤ったということでもある。「趣味が合わないものを見せられたのだから文句を言う権利がある」と思って悪態をつくのだろうが、傍からみれば「勘違いして趣味が合わないものを勝手に見たのに、他人の所為にして自分勝手に文句を付けている」ようでもある。


 SNSやYoutubeの動画に心無いただただ貶すだけのコメントをしている人というのは、テレビに向かって文句をつける人と似ている。例えば、テレビのクイズ番組でタレントや芸人などが答えを間違うと、「そんなことも分かんねーのかよ、このバカ」などと悪態をつく人がいる。今までの話の流れだと、「テレビの出演者も他人なので尊重するべき」という話になるかもしれないが、個人的にはテレビに向かって悪態をつく行為は別に構わないと思う。
 前述の居酒屋の話で言えば、となりの客の話を「そんなことねーよw」と思いながら聞くことは何も問題ないし、店を出た後で一緒に飲んでいた友人と「アイツら面白かったなw」と話すことにはそれ程問題はないと感じる。何故なら他人の話を聞いてどう思うかは人ぞれだし、彼らのファッションを一つの作品と捉えれば、それを見てどう思うかも個人の自由だ。しかも直接的に否定しないのであれば誰も傷つかない。
 クローズドな環境で笑い話の一つとして扱うことまで否定すれば、それはそれで息苦しい。陰口をたたいていると考えることもできるが、相手を直接否定しないという行為はある意味で最低限の尊重でもあるだろう。だからテレビに向かって悪態をつく行為にもそれ程問題はないと感じる。

 SNSやYoutubeへのコメントで悪態をつくのと、テレビに向かって悪態をつくことの大きな差は、その悪態が相手に直接伝わるかどうかだ。SNSやYoutubeのコメント欄で悪態をつく行為が似ているのは、厳密に言えば、テレビに向かって悪態をつく行為ではなく、テレビ番組収録の観覧に参加して、観覧席から演者らに対して悪態をつく行為だ。テレビに向かって悪態をついても演者らには直接聞こえないが、番組収録中に観覧席で悪態をつけば演者らに直接伝わる。
 もしそんなことをすれば、最悪収録スタジオからつまみ出されるだろう。例えばSNSなどでタレントや芸人に対して悪態をつく行為は、当事者に直接その悪態が伝わるので、観覧席での悪態と、ある意味では同じ事をしていると言えるだろう。勿論番組の感想を「面白くなかった」とコメントするのは問題ないが「面白くねーよ、バーカ」とコメントするのは問題がある。確実に「バカ」は余計だ。

 他国でどうなのかは分からないが、日本では多くの人が「自分が嫌なことを他人にしてはならない」と、小さい時から教わって育つ。それを逆手にとって「俺は、バカと言われるのは嫌ではないから、他人にもバカと言わせてもらう」のような事を言う人がいるが、「自分が嫌なことを他人にしてはならない」は「自分が嫌でないなら他人にしてもいい」ではない。それは大きな勘違いである。「自分が嫌でなくても他人が嫌がることはしてはならない」と思っておくべきだ。
 結局、「俺は、バカと言われるのは嫌ではないから、他人にもバカと言わせてもらう」のような事を言う人も、「空気が読めない」「思いやりが足りない」人でしかない。


 BuzzFeed Japanが7/10に「高校生が高齢者と選挙の話をした結果…」という記事を掲載していた。アウトドアブランドのパタゴニアが、選挙や政治、社会問題について誰でも語りあうことが出来る「ローカル選挙カフェ」を店舗に設けているという話だ。記事では、見ず知らずの老若男女がそこで選挙について話を交わしていると紹介されている。
 この記事を読んで思った。2017年11/16の投稿などでも書いたが、どんなにネットが発達しても、人間が人間である限り、対面コミュニケーションの意義は決して失われない。他人を尊重することを学ぶには、確実に対面コミュニケーションをすることが不可欠だ。勿論対面コミュニケーションの場面でも相手を尊重出来ずに喧嘩になることもあるだろうが、最初から相手を尊重せずにただただ貶すようなコミュニケーションを、対面で見ず知らずの相手に出来る人はかなり少ないだろう。そのような経験をする為にも、やはり対面コミュニケーションの必要性はこの先もずっと失われることはないだろう。

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