置き去りにすることを「置いてけぼり」にするとも言う。この表現は江戸時代の落語の怪談噺、その名も「置行堀」(Wikipedia)に由来するそうだ。置行堀は魚がよく釣れるお堀なのだが、魚釣りをしているとどこからともなく「置いていけ、置いていけ」という声が聞こえてくるという話だ。自分はアニメ「まんが日本昔話」でこの話を知ったように記憶している。
BuzzFeed Japanは昨日、「障害があっても自分らしく生きるために必要なこと 岩崎兄弟が大学で展示と登壇」という見出しの記事を掲載した。筋ジストロフィーを患いながらも絵や詩などの創作活動している岩崎 健一さん・航さん兄弟が、「障害者が自分らしく、そして健常者同様に人間らしく生きていく為には何が必要なのか」について、自らの作品展で語ったことに関する記事だ。
この記事の冒頭に、
重度障害があっても地域で介助を受けながら生活する人は増えているが、介助者不足や、公的介助の支給時間を決める行政の理解不足などの課題は多くという部分がある。介助者不足の理由には、介護業界に限らない日本社会における慢性的な労働力不足という側面もあるが、同業界が他の業界に比べ明らかに低賃金で担い手が集まらないのも事実で、つまり具体的に指摘している「公的介助の支給時間を決める行政の理解不足」共々、政治の責任がとても大きい。
このように書くと政治家と行政・役人の責任である、と認識する人もいるだろうが、厳密に言えば、社会福祉政策に関心の低い政治家を選んでいる、有権者の大多数を占める健常者の無関心・他人事な感覚の結果でもある。言い換えれば、政治家や役人だけでなく、多数派に関わること以外は他人事で、明日は我が身・将来的には自分や自分の家族や友人が障害者・要介護者になるかもしれないのに、そのような人達の利益には無関心・置き去り・置いてけぼりにしている全ての有権者にも責任がある。政治家や役人だけに責任転嫁して済ませてはいけない、と考えなければならないのではないか。
内閣が「この方針で行く」って決めたら、官僚としては、「少しでもマシにする方法」を探るしかないだろうと思う。「有識者の声」に耳を貸さなかったのは政治であり、彼らを選んだ国民。— 木村草太 (@SotaKimura) November 11, 2019
ババ引かされたのは受験生だ! 英語民間試験 なぜ国は推進した | NHKニュース https://t.co/YHasKLJNLJ
と、憲法学者で首都大学東京教授の木村 草太さんがツイートしていた。前段で自分が書いた考え方と似ており、木村さんのこの主張は概ねその通りだと思うのだが、しかしやや違和感もある。それは、
内閣が「この方針で行く」って決めたら、官僚としては、「少しでもマシにする方法」を探るしかないだろうと思うという部分についてで、前述のように概ねその通りなのだが、しかし一方で、ものには限度というものがあり、「「少しでもマシにする方法」を探るしかない」は妥当とは言い難い。
3/31の投稿で、テレビ番組の出演者は台本通りに喋っているだけなので、何を話しても概ね彼らに責任はない、という主張の妥当性はあるかについて書いた。例えば、「万引きしてこい」と台本に書いてあり、出演者が実際に万引きして窃盗罪に問われたとする。果たして台本によってそそのかされただけだから無罪となるだろうか。「通行人をいきなり殴る」と台本にト書きがあったらそれに従って殴るだろうか? 殴った責任を問われるのは指示したディレクターや作家だけだろうか。万が一そのような台本の内容を実行したら演者も確実に責任を問われる。演者が分別の未熟な未成年者なら責任は問われないかもしれないが、分別のある大人であれば「そそのかされただけ」という言い訳など通用するはずがない。
木村さんのツイートは、先日導入延期が公表された、センター試験に代わる新テストとして導入される予定だった英語の民間試験に関して示された見解だ。勿論人間のやることに完全・完璧はあり得ず、どんな政策にも弊害等は少なからず生じるもので、弊害を相殺する以上のメリットが見込める政策ならば、官僚にとっては内閣の方針に従って「少しでもマシにする方法」を探るのが定石だろう。しかし例えば、著しく不公平な状況を生じさせてしまうであろう制度を内閣が推し進めようとしていたら、それはどうやってもマシと言える状態にはならないだろうから、官僚は基本的には内閣の方針に従うべきでも、何かしらの方法で異論を呈するべきではないのか。メディアや野党議員に不備を指摘して欲しいと話を持ちかける等、何かしら出来ることがあるだろう。
そうしなかったから、木村さんが引用したNHKの記事の見出しにもあるように、受験生が翻弄されババを引かされる状況になった、つまり教育制度改革と称した政策であるにも関わらず、当事者の受験生が置いてけぼりにされてしまっているのだろう。「木村さんの話は全面的におかしい」と言うつもりはない。しかし、官僚は内閣に万引きを支持されたら、実際やることは万引きなのに、罪を逃れられる方法、若しくは万引きが発覚しない方法でどう万引きするかを検討するしかない、みたいな話にも見えてしまう。
また「内閣が「この方針で行く」と決めたら」という部分も、10/6の投稿で書いた「1度決まったことだからやるしかない」という、思考停止にも近い発想に基づいているように感じられる。確かに内閣の妥当とは言えない方針に対して主体的にブレーキをかける役割を担うべきは、野党政治家やメディアなどだろうが、官僚が内閣のYESマンであるべきかと言えば決してそんなことはなく、だから「そんなことないんじゃないの?」と思えてしまう。
日本の社会福祉政策が充実しないのは、政治家や役人だけの責任でなく、有権者の大多数を占める健常者が、少数派で自分とは異なる状況にある障害者や要介護者を置いてけぼりにしているからでもある。不公平極まりない大学入試制度が導入されかかっているのにも、それと同様の側面はある。しかし制度検討時から既に不公平さについての指摘があり、今年に入ってからは大学や高校生など当事者からも批判の声が上がっており、受験生など当事者からも「不公平だ」という訴えがあったにも関わらず、まるで他人事のように無視して・当事者を置いてけぼりにしてゴリ押ししようとした政府、つまり内閣と官僚の責任が大きいと言わざるを得ない。制度のゴリ押しに加担した官僚にも確実に責任の一端はある。
現政権のそんな側面を積極的に伝えないメディアも、実質的には政権と共犯関係にあるようにも見える。新聞やテレビ関係者は、そう言われて心外だと思うなら、「野党が批判を強めている」のような消極的な態度でなく、もっと主体的に、そして積極的に「おかしなことに対してはおかしいと明確に言う」必要があるのではないか。1930年代の日本で何が起きたか、その結果どんな悲劇になったかを、官僚もメディアも、そして一人ひとりの有権者ももう一度確認しておくべきだ。
トップ画像は、smokefishによるPixabayからの画像 を加工して使用した。