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新潮45の二の舞が懸念されるフジテレビ、薬物使用=即依存症という誤解


 フジテレビ・バイキングの3/28の放送内容がSNS上で大きな話題になった(J-Castニュースの記事)。3/28のバイキングは、日本だけでなく世界的に見てもDJプレイネット放送番組の草分け的な存在であるDommune(ドミューン)が、3/26に電気グルーヴの楽曲オンリーのDJプレイを5時間に渡って放送したことを取り上げた。
 Dommuneは、映像作家・特にVJとして活躍する宇川 直宏さんが立ち上げたサービスで、当初はクラブ文化の拡張を目的として、多くのクラブが営業していない平日の夜にDJプレイを放送するサービスだった。平日はDommuneでDJプレイを楽しみ、週末は実際にクラブへという流れを目指していた(ように、少なくとも自分には見えた)。
 Dommuneは基本的に月曜から木曜の19時頃から翌0時頃まで、19-21時はトーク中心、21-0時はDJプレイというスタイルで放送を行っている。当初はトークパートもDJや音楽アーティストが中心だった。徐々に音楽関連の業界の話や社会問題なども取り上げるようになり、東日本大震災の前後からは直接音楽とは関連しない社会問題等がテーマになる日も増え始めた。また、今回の電気グルーヴオンリー5時間のように、海外の有名なDJが来日した際や、何か特別なイベントの前夜祭的な放送など、DJプレイだけを放送する日もしばしばある。放送は基本的に渋谷にあるスタジオから行っており、WEBサイトから予約を入れれば無料で観覧することも可能だ。


 Dommuneがなぜ3/26に電気グルーヴオンリー5時間の放送を行ったのかと言えば、3/16の投稿「連帯責任の無意味さとサブスクリプションサービスの危うさ」でも触れた、ピエール瀧さんがコカイン使用容疑で逮捕されたことを受けて、彼がメンバーの1人だった電気グルーヴのCD、映像商品の出荷停止・店頭在庫回収 音源や映像のデジタル配信停止をレコード会社が発表したり、イベントプロモーターなどが、もう1人の電気グルーヴのメンバー・石野 卓球さんの活動まで自粛をするような状況に陥ったことへの牽制、というか「そんな過剰な対応が必要なのか」という、一部の音楽ファンや音楽ファン以外の者が感じていたことを代弁する為に催されたのだろう。勿論電気グルーヴの著名さや色んな意味での話題性の所為もあっただろうが、自分が見ていた限り3/26は普段以上の視聴者数だった(Dommuneが放送に利用しているYoutubeライブでは瞬間視聴者数が画面に表示される仕組みになっている)。

 フジテレビ・バイキングは所謂昼のワイドショーで、超長寿番組だった笑っていいともの後釜番組として始まった番組だ。タレントらが多く出演し、その時々の時事ネタについてトークするという体裁のワイドショーである。場合によっては専門家とされる者が出演することもある。
 Dommuneの電気グルーヴオンリー5時間の放送を同番組がどのように取り上げたのかと言えば、出演者の1人が「ドミューン知ってる人ってここの中でいます?」と言うと、他の演者らも「知らない」と同調し、知名度の低いDommuneがピエール瀧さんの逮捕や電気グルーヴの楽曲提供自粛という状況を利用した売名の為に電気グルーヴオンリー5時間という企画を行った、かのような論調だった。詳しくはJ-Castニュースの記事で解説されている。

 フジテレビのピエール瀧さん逮捕に関する報道姿勢については、3/23の投稿「平成も終わろうというのに、昭和の感覚を未だに引きずるフジテレビ・テレビ報道全般の残念さ加減」でも、FNNプライムの取り上げ方の異様さを指摘した。フジテレビの他のワイドショー番組もいくつか確認したが、似たような内容のものが多く、「フジテレビの報道姿勢」と一括りに批判しても問題ないようなレベルの状況だと感じていたところに、追い打ちをかけるようにバイキングの放送内容の酷さが話題になった。
 昨年所謂杉田問題を発端に、新潮45が休刊するに至った(2018年9/26の投稿)。休刊の際に新潮社は、
 ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました。このような事態を招いたことについてお詫び致します。
という声明を発表しているが、昨今視聴率の低迷が指摘されているフジテレビが、新潮45と同じ様な状況に陥っているのではないかと危惧する。
 余談だが、国内外で人気を博したマンガ「デスノート」に浅はかなワイドショー番組ディレクターが所属するさくらテレビという放送局が登場する。個人的にではあるしなんとなくではあるが、さくらテレビのモチーフはフジテレビではないかと感じていた。デスノートの連載は2003-2006年で、当時はまだフジテレビは視聴率最下位争いの局ではなかったし、デスノートに登場するさくらテレビのモチーフがフジテレビだったとしても、それはフジテレビだけでなくテレビ局やワイドショー番組の負の側面をデフォルメして描いている、つまりフジテレビはそこまで酷くはないと思いながらデスノートを読んでいた。しかし、あれからおよそ15年たった今振り返ってみると、デスノートという作品自体が(悪い事が現実になるという意味で)実際にデスノートになっているような感覚にさせられる。

 この件に関して次のようなツイートがあった。
「台本通りに喋っているだけだから演者らには何ら責任はない」もしくは「演者らを批判するのはお門違い」と言いたいのだろう。確かに台本通りの流れだとすれば、責任が最も重いのは放送作家やプロデューサー等番組の制作者らだろうが、台本通りだから演者には何ら責任がないとはならない。例えば、番組が「万引きしてこい」と台本に書いたらやるだろうか? 「誰かを殴れ」と書いたら殴るだろうか? 出演料の為なら何でもやるのだろうか? 万が一そのような台本の内容を実際に実行したら演者も確実に責任を問われる。つまり、生活にも困窮するような状態の収入が著しく低い駆け出しのタレントが言わされたとか、事務所や番組から「従わなければ解雇・降板」などの脅迫にも近い行為を受けていたなどの状況でもない限り、「台本通り喋っただけだから演者に責任はない」という事にはならない。台本通りに演者が喋っていたとしてもそれは「正犯と共犯」のような関係と言えるだろう。


 BuzzFeed Japanは、3/30に「ピエール瀧さんを私がバッシングしない理由 深澤真紀さん、松本俊彦さん薬物報道を斬る(1)」という見出しの記事を掲載した。タイトルに(1)とあるように、何回かに分けての連載記事だろうから、この初回だけで記者や対談者らの主張を判断すべきでないのかも、という思いもあるが、とりあえずこの初回記事を読んで感じた事を書き残しておきたいという思いもあり、これについての読後感を書くことにする。
 記事は国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部長の松本 俊彦さんと、獨協大学特任教授でコラムニストの深澤 真紀さんの対談形式である。この対談は、深澤さんがコメンテーターを務める、フジテレビのとくダネ!の中で、
 少なくとも薬物って自分が被害者という特殊な犯罪ですし、もちろんつけたら見られるテレビについてはある程度のことは必要なのかもしれないですけれども、これを機にお金を払うようなエンターテインメントについては、しかもまだ容疑段階なのでここで全て彼の仕事を私たちが奪っていくとますます病気から治ることはできませんから。他の国でここまで厳しく薬物をやった人の仕事を全部消すという流れは減っていますからね
などと発言し、SNS上などで「法を犯した人を被害者として扱うのはおかしい」などの批判を受けた、ということがあり、それを目の当たりにした松本さんが対談を要請して実現したもののようだ。
 記事の趣旨は概ね賛同出来る内容だ。前述のフジテレビだけでなく、現在の薬物事犯に対する大手メディアの報道姿勢には自分も疑問を感じる事が多いし、過剰な自粛もその動機は「過剰な事かなかれ主義・過敏にクレームを避けようとする風潮」の現れでしかないと思っている。勿論メディアだけに責任があるのではなく、SNS等を利用し、匿名で必要以上の批判、というか場合によっては中傷を繰り広げる視聴者・市民のにもこの状況を生む責任はあるだろうが、2/8の投稿でも触れた「(今のテレビ等では)100人中2人に向けたことをやる人が多い。それでつまらなくなってる」「(文句やクレームを)ネットに書き込むような人はその2人。応援してる98人はわざわざ書かない」(マツコ・デラックスさんの発言)のような状況に過剰に忖度する必要があるのか大きな疑問だし、クレームを受けるコストを減らす為に先回りしているのなら、報道やメディアは表現を自ら狭めて、自ら死へ向かっているとも言えるかもしれない。
 更に深沢さんは、自分も3/23の投稿で触れた、
 1988-89年に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人がアニメや特撮等のオタク趣味を愛好しており、ビデオテープ満載の彼の部屋が報道で何度も擦られまくったことなどによって、オタク趣味=陰気な奴の気持ち悪い趣味のようなイメージが醸成され、その払拭に十数年の期間を要した
ことにも触れており、メディアや報道の在り方に対する記者・対談者2人の見解には強く賛同する。

 しかしその一方で、記者・対談者らの見解には賛同しかねる部分もある。記者は準見出しを「松本俊彦さんのラブコールで実現したこの対談。「厳罰でなく治療を」というコメントで注目された深澤真紀さんは、ご自身が精神疾患を持つ当事者として言葉を選んでいることを明かしました」としている。自分にはこの「厳罰でなく治療を」という見解は必ずしも正しいとは思えない
 自分の経験上、薬物や大麻と細く長く、つまり普通の人がタバコや酒を嗜むのと同じ様に、節度を以て接している使用者はそれなりにいた。つまり薬物事犯で逮捕される者が総じて極度の中毒・依存症という認識は適切とは言えない。ピエール瀧さんは今年51歳である。報道が正しければ彼は20代から薬物等を摂取していたそうだが、このおよそ30年間彼は大きな問題を起こした事もないし、逮捕される直前だって普通に仕事をこなしていた。寧ろ普通以上に仕事をしていた。それを勘案すれば、彼は極度の中毒・依存症ではなく、長い間摂取量をコントロールしてきたと言えるのではないだろうか。勿論日本では違法なので、だからと言って薬物の摂取を肯定するべきではない。しかしそれでも、記者や対談者らが薬物事犯で逮捕された者が総じて薬物中毒、依存症かのように論じるように見える点から、大概のメディア報道やワイドショーなどに適切な理解が足りていないのと同様に、対談者らもまた別の点で理解が足りていないのではないか、と感じる。また、薬物事犯で逮捕された者が総じて薬物中毒、依存症であるかのような認識も、日本の薬物に対する「ダメ、ゼッタイ」という、絶対的な悪かのように啓蒙する方針の負の側面の一つでもあるように感じる。その所為もあって、他国・他地域では解禁している場合も少なくなく、そして研究が行われている大麻についても、日本では充分な研究検証が出来ない状態と言えそうだ。
 日本では、というかどの国でも概ね薬物使用は違法な行為だ。そして反社会勢力の資金源になっているという問題もある。ただ、幾つかの国・地域は大麻を解禁した理由に「個人的な所持・使用を認める事で流通をコントロールし反社会勢力の資金源を減らす」ことを挙げており、薬物を法的に禁止すること自体が反社会勢力に資金源を与えている側面もあるだろう。
 
 そもそも、日本で専門家を名乗る者の多く、特にテレビにコメンテーターとして出演する者の多くが、大麻吸引の経験すらないのに専門家を名乗っているのはどうなのだろうか。薬物は難しいかもしれないが、大麻については吸引が合法的に出来る地域があるにも関わらず、摂取の経験もなく専門家を名乗るのは適切なのだろうか。大麻・薬物の摂取=即中毒・依存症のような誤解があるから、大麻吸引の経験もなく専門家を名乗れるような状況なのだろう。勿論不安定な精神状態で大麻等を摂取すれば依存症や中毒状態になる場合もあるだろうが、それはアルコールやたばこだって同じことだ。アルコールの影響を研究する者は、少なからず自分もアルコールを嗜むのではないだろうか。



参考:これまでに書いた関連する投稿

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