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強きに屈し弱きを軽んじる


 石川五右衛門は義賊として有名だ。「天下の大泥棒」とも呼ばれるが、彼が盗みの対象にするのは権力者や富を独占する商人で、盗み出した金品を貧しい庶民に振りまくヒーローとして語り継がれ、「強きを挫き弱きを助く大盗賊」とも称される。彼は浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などの題材に多く取り上げられ、近代以降は度々映画が製作されている。マンガ/アニメのルパン三世には彼の子孫という設定のキャラクターが登場し、「がんばれゴエモン」シリーズを始めとしたテレビゲームにもなっている(Wikipedia:石川五右衛門)。


 石川五右衛門のようなタイプは、日本のヒーロー像としてはやや異質な存在かもしれない。日本で英雄として描かれるのは、戦国時代などに武功を残すような活躍をした武士が多い。江戸以降の町人文化期の英雄として描かれるのは、鼠小僧など石川五右衛門タイプもいるが、水戸黄門や遠山の金さん・暴れん坊将軍のような、相応の身分にある者がその身分を隠して小悪党を懲らしめるタイプが多そうだ。遠山の金さんのように町役人レベルだと、自分よりも身分の高い者を懲らしめる場合もあるが、さらに身分が高い助っ人が現れることも多い。つまり、日本の英雄物語の中では、最高権力者たちは概ね正義の味方として描かれる。それに対して石川五右衛門は、作品それぞれで演出や脚色の違いがあったりはするものの、盗賊である五右衛門がヒーローで権力者たちは悪者扱いだ。

 これまでにも度々指摘しているが、日本のメディア報道、特にテレビ報道は、政権への忖度傾向が色濃くなっている。今年に入って、そして下半期になってからは特に顕著で、自国の政府・与党政治家の不届きな行為よりも、韓国の法務大臣のスキャンダルばかりを取り上げるような状況になってしまった。また、10/31の投稿でも触れたように、大臣がたて続けに辞職するような状況になったことについて、首相がオウムのように「任命責任は私にある、国民にお詫び申し上げる」という旨のコメントをしても、官邸記者クラブの記者は誰も「で、その責任はどのように果たすのか?」という質問を投げかけないし、「真摯に受け止める」と首相が繰り返しても、「受け止めた後が重要で、具体的にはどうするのか。これまでも何もしてこなかったじゃないか」という指摘を誰もしない。
 これでは、今のメディア報道、特にテレビ報道は「強き(首相・政府・与党)に屈し、弱き(国民)を軽んじる」状況にあると言わざるを得ない。今のメディア、特にテレビ報道には、日本人の典型的な感覚「お上は常に正しい」に基づいた報道ではなく、石川五右衛門のような「強きを挫き弱きを助く」を実践する報道をして欲しい。そうでなければ権力の監視役というメディアの重要な役割を果たすことは出来ず、存在意義がなくなるどころか場合によっては害悪にもなり得る。


 10/31はハロウィーンだった。10/23の投稿「2019年のハロウィーンを前に。渋谷区の対応の妥当性」でも書いたが、この数年ハロウィーン直前の週末や10/31当日は渋谷駅周辺に多くの人が集まるようになっており混乱が生じる。特に昨年はそれが顕著で、痴漢や器物破損等による複数の逮捕者が出た。それを受けて渋谷区は1億円の対策費を投じて対応にあたり、期間中の路上飲酒禁止条例を定める対策も講じた。
 その成果はあったようで、報道を見ても迷惑行為等は昨年より少なかったと概ね報じられている。具体的にテレビ報道がどのように報じたかを確認する為に、民放在京キー局がニュースサイトに掲載した記事を調べた。ここに挙げたのは10/31以降に掲載された記事で、10/23・24に関する分は含まれていない。

NHK NEWS WEB

日テレNEWS24

TBS NEWS

テレ朝news

FNN.jpプライムオンライン

テレ東NEWS

ハロウィーン報道は視聴率に繋がるのか、どの局も複数の記事を掲載している。所謂報道系の番組では、渋谷区の対応が一定の功を奏したこと、今年も複数の逮捕者が出た事などを伝えており、昨年ほどは否定的な報道、けしからんというニュアンスの強調はされていない。
 しかしワイドショーや朝夕の情報番組などでは、相変わらず否定的・けしからんというニュアンスを強調した取り上げ方をする番組も多い。番組の取り上げ方自体はそのような傾向でなくても、一部のコメンテーターがそんなニュアンスのコメントを強調している場合もある。また、ここに挙げた記事の中でも、テレ朝ニュースの「いよいよハロウィーン!1億円使って厳戒下の渋谷は」は、右上に表示するコピーに、様子が穏やかでないこと、険悪なことなどを示す「不穏」という文字を付け、10/31の夕方に報じた事前報道であるにも関わらず、あたかも大きな混乱が生じているかのような印象を煽ってしまっている。




 確かに、痴漢や器物損壊等を行った不届き者には相応の処分がなされて当然なのだが、各地で行われる祭りや花見など人が集まる場合は、警察が通常業務とは異なる警備をするのは当然だし、浮かれた者などの中には相応に警察の厄介になる者も出る。混乱が生じたり迷惑行為が起きるのはハロウィーンの渋谷に限った話ではない。あたかもハロウィーンの渋谷だけが異常な状態かのように、「だからけしからん」的に表現するのは如何なものだろうか。他がOKなのだから渋谷のハロウィーンも大目に見ろ、という話ではないが、一部のテレビ番組は「けしからん」というニュアンスを強調し過ぎではないだろうか。
 「渋谷区の税収から、本来必要のないハロウィーン対応予算1億円を負担することになった」というニュアンスを強調するのも適切とは思えない。「ハロウィーンでは混乱が生じるので店を閉めざるを得ず、地域に経済的な恩恵はない」と主張する人もいる。なぜハロウィーンに限らず何かあると渋谷に人が集まるのかと言えば、渋谷が普段から人が集まる街だからだろう。駅周辺の地域は普段から人が集まることによる恩恵を確実に受けているだろうし、渋谷区にはそれによる税収が確実にある。ハロウィーンや年末年始など何かある度に人が集まるのは迷惑だ、と言うのなら、普段から人が集まり難い街づくりをすればよいのではないか。そうすればハロウィーンも人が集まらず対応予算もかけずに済むだろう。ハロウィーン期間だけに限定して見れば、確かに人が集まるのは迷惑でしかないかもしれないが、年間通して考えれば確実に恩恵もあるはずなのに、「けしからん」を強調したいが為に期間を限定して「不要な予算」とか「経済的な恩恵がない」と表現するのは、果たして妥当だろうか。


 そのような主張が全くの検討違いとは言わない。勿論迷惑行為は迷惑行為だし、渋谷に集まる人達のハロウィーンの楽しみ方にしても、もっと良い方法もあるかもしれない。しかし、そのような「けしからん」というニュアンスを強調する番組やコメンテーターには、
渋谷のハロウィーンの状況に強く憤るなら、政府や与党の不届きな行為にも同じくらい強気に苦言を呈したらどうだ?
と言いたい。 渋谷で騒いでいる多くはお祭り気分の若者や外国人だ。そのような苦言を呈しやすい対象には強気なのに、政府や与党などには同じくらい強気で苦言を呈せないことを恥ずかしく思わないのだろうか。

 そんな渋谷ハロウィーンの取り上げ方からも、今のメディア、特にテレビは「強き(首相・政府・与党)に屈し、弱き(国民)を軽んじる」傾向にあることを再確認させられる。

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