10/31はハロウィーンだ。今年・2019年の10/31は木曜日なので、盛り上がりを見せるのはこの週末10/25-27にかけてだろう。この数年、日本ではハロウィーンがクリスマス以上の盛り上がりを見せるようになっている。
1990年代から定着し始め、現在では日本文化の一つと言えるようになった、コスプレとの親和性の高さもその一因かもしれない。クリスマスにもサンタクロースやトナカイのコスプレをした人は見かけるが、ハロウィーンでは仮装テーマが限定されない。本来は子供がお菓子をせがむ為にお化けに扮するという体裁で、ゾンビ風などの仮装が人気ではあるものの、幾つかの理由から最近は何でもアリになっている。
また、日本ではクリスマスが恋人と過ごす日的に認識されているのに対して、ハロウィーンには盆踊りのようなお祭りとして認識されている感があり、花見や夏祭り同様何か理由をつけて騒ぎたい人達が参加しやすいのもその理由なのかもしれない。
ハロウィーンだけでなく、2002年のワールドカップ開催頃から、サッカー代表戦や年末年始等、何かにつけて若者などが渋谷の路上に集まるようになった。その起源は、1990年代後半に起こった所謂ギャル文化などにあるのではないか?と自分は考えている。その担い手の女の子たちは、インタビューで「何で渋谷にくるの?」と聞かれると、大概「渋谷に来れば誰かがいる」のように答えていた。
自分も20代頃は週に4-5日クラブに入り浸る日々を送っていたが、そんな生活をしていたのには「クラブに行けば誰かがいる」という理由もあった。約束などしていなくてもフラッと出掛ければ大抵誰かがいる空間、それが平日のクラブだった。週末の大箱は兎に角盛り上がりたい人向け、平日の小箱は一人で飲むのは寂しい奴向けの空間だ。普通のバーも似たようなものかもしれないが、それに加えて大きな音で音楽を楽しめるのがクラブだ。
渋谷にはクラブも多く、六本木同様、地方都市に比べたら毎日がお祭りみたいな街だ。そんな空気感もあって、「渋谷に行けば誰かがいる」「お祭り騒ぎするなら渋谷」みたいな認識が定着したのではないだろうか。
ある種異様な盛り上がりを見せている昨今の渋谷のハロウィーン事情だが、少なくとも2000年代までは、クラブでハロウィーンパーティーが行われているぐらいで、この数年のように街に仮装した人が溢れるようなことはなかった。街中のお祭り騒ぎは年々大きくなり、この数年は所謂迷惑行為も増えているようで、昨年は軽トラックが横転されられた件が話題になった。
そんなことを受けて、期間中の渋谷地区を立ち入り禁止にしようだとか、住民以外の立ち入りを有料化しようだとか、仮装を禁止しようのような結構乱暴なことを言う人が現れたり、代々木公園でイベントを開いてそこへ誘導しようなんて話もあったのだが、結局具体化したのは、罰則を伴わない路上飲酒禁止条例だけだった(ハロウィーン混乱防げるか=路上禁酒条例、実施へ-東京・渋谷:時事ドットコム)。
これに対しては複雑な受け止めをせざるを得ない。去年のハロウィーン後から今年の4月頃にかけて、地区の有力者や渋谷区長らが、あれ程強行な姿勢を示していたにも関わらず、結局具体化したのは路上飲酒禁止条例だけと聞いた第一印象は、「できもしないのに大風呂敷を広げるな」だ。これは特に区長に対する感情だ。彼は昨年・2018年の11/1に「代々木公園に参加者らを誘導したり、参加を有料にしたりといった規制を含めた対策について、来年度予算に盛り込むことを検討」という姿勢を示していた(狂騒ハロウィーン 渋谷区長「来年から有料化も検討」 - 産経ニュース)。代々木公園でイベントを開いて誘導する、というのは有効な対策のようにも思えたが、結局それも具体化はしていないようだ。
しかし一方で、昨年のハロウィーン直後に示したやや感情的な見解を意固地になって貫き通す、という愚かなことは避けたとも捉えることもできる。例えば、3/11の投稿でも取り上げたように、特定の服装(所謂刺繍入りの卒ラン・暴走族風の特攻服等)だけで「通行人を威圧した」と認定するという、乱暴な手法の補導を福岡県警が行ったのが、渋谷区や区長がそのような乱暴な規制を思いとどまったという風にも解釈することが出来る。
乱暴な規制をしないというのはある種当然のことで、褒めるようなことではない。しかし現在の日本では、7/17の投稿、8/28の投稿などでも書いたように、政権を批判する者を警察が不当に排除する事案も既に複数起きているし、9/27の投稿、10/18の投稿でも書いたように、後だしジャンケン的な手法による表現活動・芸術活動に対する不当な抑圧的判断も既に複数示されている。そんな状況を勘案すれば、渋谷区や区長が強引で危険な、乱暴な規制に手を出さなかったことは、褒めるようなことではないが、安堵させられる面も確実にあった。
勿論他人に危害を加えるような行為を警察が取り締まったり、そのようなことが起きないように予防措置を講じるのは何も悪いことではないし、寧ろそれは当然のことで、警察や行政機関の役割だろう。しかし、例えば特定の服装をしただけで補導の対象としたり、政権批判をしただけで警察に一次的にでも拘束されるというのは、確実にその範疇を超えている。あいちトリエンナーレや映画「宮本から君へ」の助成取消も、その根拠はかなり強引で、政権に都合の悪い表現活動への抑圧、つまり表現の自由を侵す行為の懸念は深刻だ。
このような状況で「ファシズムの始まり」と懸念しても、未だに「大袈裟だ」と言う人が少なくない。しかし、ナチによるドイツの悲劇、太平洋戦争に向かった日本もある日突然そうなったのではない。好ましくない状況は足音を立てずに忍び寄ってくる。有権者が楽観的だったり無関心だったりすれば、あっという間に批判できないような空気に支配されてしまう。批判出来るうちに批判することを軽視してはならない。
トップ画像は、3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像 を加工して使用した。