「情けは人の為ならず」とは、「他人に情けを掛けておけば、つまり思いやりの心を持って接していれば、それが巡り巡って自分にも良い報いとして返ってくる。だから積極的に他人に情けを掛けなさい」ということを示す慣用表現である(情けは人の為ならず - Wikipedia)。しばしば「親切にするのはその人のためにならないから非情になるべきだ」という意味だと認識している人に出くわすが、「「情けは人のためならず」の意味 文化庁 | 文化庁月報 | 連載 「言葉のQ&A」」によると、2012年の調査で60代以下の全ての年代で誤認が上回っている。Wikipediaにも、要出展の指摘があるので真偽の程は定かでないが、1960年代には既に誤認が広がっていたという話が紹介されている。
シックスセンスへの出演によって、日本でも一躍人気子役となったハーレイ ジョエル オスメントさんが、主役の中学生役を演じた2000年の映画・Pay It Forward(邦題:ペイ・フォワード 可能の王国・Wikipedia)は、「自分が受けた善意や思いやりを、その相手に返すのではなく、別の3人に渡す」ということをテーマにしていた。日本語の「情けは人の為ならず」と少しニュアンスが異なるものの、発想自体はとてもよく似ている。
昨日、BuzzFeed Japanが「情けは人の為ならず」の重要性を感じさせる記事を2つ掲載していた。
1つは「命綱なしで歩いている感覚。目の見えない人が感じている恐怖とは。」という見出しの記事で、2019年10月に、京成線立石駅で視覚障害者の女性がホームから転落し、死亡したという事件をベースに、ホームドア設置の現状、設置促進の必要性などについて書かれている。ホームドアは、駅のプラットフォームに設けられた転落防止柵の乗降用に開閉する部分のことで、つまりホームドアの設置とは即ちホームを転落防止柵で囲うことを意味している。視覚障害者だけでなく、車椅子やベビーカーなどがホームの傾斜などによって動き出して転落することも防ぐことが出来る設備だ。以前は新幹線のホームぐらいでしか見かけることはなかったが、最近は都市部の駅を中心に在来線でもしばしば見かけるようになった。次の画像は、File:Meguro station Platform screen doors.JPG - Wikimedia Commons を使用した。
確かに全ての駅にホームドア・転落防止柵の設置が出来ればそれは素晴らしい。しかし、2017年8/15の投稿で指摘した、全ての線路に侵入防止柵を設けること程ではないにせよ、ホームドアの全駅設置だってかなりのコストがかかる。乗降客数の少ない路線等を勘案すれば、全駅設置が現実的でないのは明白だ。将来的には実現可能かもしれないが、相当の時間を要するのは間違いない。
ホームドアがなくても、周りの乗客が「情けは人の為ならず」の精神を発揮し、無関心・見て見ぬふりを止めて、視覚障害者や車椅子利用者、ベビーカーを使う人などへの思いやり・配慮を発揮することが当然の社会になれば、悲惨な事故の多くは防げるはずだ。それは、足が悪くて信号が変わる前に横断歩道を渡りきれない人を健常者が手助けしてあげるべきなのと同様だ。
事故や突発性の病などによって、人は誰でも急に視力がなくなって目が見えなくなってしまうかもしれないし、年を重なれば身体に不自由が生じるかもしれない。自分や自分の家族・友人がそうなったとして、周りの人が無関心・見て見ぬふりする社会と、誰でも気軽に手助けしてくれる社会と、どちらが望ましいと感じるだろうか。殆どの人が後者の方が望ましいと感じる筈だ。
ホームドアや転落防止柵の設置は全く必要ないとは言わないが、それにかかるコストを支払う代わりに、社会に属する全ての人が少しずつ思いやりを発揮すれば、ホームドアを設置しなくても多くの事故を防ぐことができるだろう。
もう1つは「通行人は見て見ぬふり。日本で起きているヘイトのリアル、知っていますか?」という見出しで、外国にルーツを持つ若者たちが団体を立ち上げ、職場・学校での嫌がらせやいじめ、不動産での外国人お断り、路上での暴言・暴力など、日本社会にも確実に存在する非日本民族以外への差別や偏見の解消を目的に活動を起こした、という内容の記事だ。
この記事の中で、当該学生団体の代表でイギリス人の父親と日本人の母親を持つ長谷川 トミーさんの
イギリスなら、極右の活動家が路上で差別発言をしたら、通りすがりの人も『ちょっと待て』『その発言はダメだ』と止めることが多いのですが、日本ではそのような第三者介入もあまりないように思いますという話が紹介されている。長谷川さんは「NOと言わないことは差別を見過ごしていることになります」と、学校や職場での差別発言なども、その場にいる人が注意し止めることが重要だと指摘している。本当にその通りだと思う。女性が電車等で痴漢されたことを周囲に訴えても、殆どの人が見て見ぬふり・無視するなんて話も頻繁に耳にする。
この手の話になった際に、自分がしばしば紹介しているACの広告
でも語られているように、日本人の多くは
いじめを傍観するのは消極的にいじめに加担するのと同じと教えられるはずなのに、なぜか大人になると大半が「君子危うきに近寄らず」な人になってしまう。差別や偏見を厭わない姿勢は、言い換えれば大人のいじめの1つであり、大人のいじめが解消が出来ないのに、子どもの間からいじめがなくなるはずがない。
今は差別や偏見の対象になっていなくても、突然差別や偏見に晒されてしまう恐れは誰にでもある。前段の話と同じで、自分や自分の家族・友人などが、理不尽な差別や偏見に晒されたり、もっと悪いことに暴力を振るわれたりした際に、周りの人が誰も助けてくれなかったらどうだろうか。そんな社会でも仕方ないと割り切ることが出来るだろうか。出来ないようであれば、理不尽なことに晒されている人、晒されている恐れのある人に手を差し伸べるのは当然ではないだろうか。
政治のことに関しても同様で、「自分には直接関係ない」と捉えている人が自分の周りにもかなり多く存在しているが、今の有権者が無関心であることの影響は自分だけでなく、自分の子や孫などにも大きな影響を与える恐れがある。少子高齢化などはその典型的な例である。だから7/31の投稿で指摘したような、外国人や障害者に冷たい政治家を選ぶなんて、自分が外国人でなかったとしても、現在自分に障害がなかったとしても「以ての外」だ。
誰でも「明日は我が身」「情けは人の為ならず」と何事についても捉えるべきだ。自分は「君子危うきに近寄らず」だと思っている人もいるだろうが、それは単に「充分に考えていない」だけかもしれない。誤解を恐れずに言えば、社会の中に「自分に関係ない」ことなどない。人はどうやっても1人で生きていくことは不可能なのだから。
トップ画像は、John HainによるPixabayからの画像 と Free-PhotosによるPixabayからの画像 を組み合わせて加工した。