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証明や記録を軽んじる国は、まともな国とは思って貰らえない


 日本の鉄道の正確さは世界でも有数らしい。たった数秒定時からズレただけで謝罪するアナウンスが流されるという話が少し前に話題になった(日本の鉄道会社、定刻より20秒早く出発し謝罪 - BBCニュース)。個人的にはこの傾向は最早病的であるように思える。律儀で素晴らしいと称える日本人/外国人がいる一方で、神経質すぎることの表れだと評価する人もいる。自分には後者としか思えない。

 なぜ後者だと感じられるのかと言えば、このツイートから続く、こんな話が後を絶たないからだ。


このツイートから続くやり取りに、駅員というだけで我慢しないといけない社会は不健全だ。勿論駅員に限らず全ての接客業に言えることだろう。横柄な客には相応の対応を。それが間違いなく健全だ。数秒程度のズレで謝罪アナウンスが必要なのは、日本人には相対的にクレーマー気質の者が多い、ということの裏返しなのではないだろうか


 日本の鉄道、特に都市部の通勤時間帯はどこも過密で余裕のないダイヤなので、人身事故や故障などによって数十分単位の遅延がしばしば起きる。そんな時には乗客に対して「遅延証明書」なるものが配られる。遅刻の原因は鉄道の遅れによる、ということを証明する為の書類だ。書類という表現から想像されるような仰々しいものではなく、切符より少し大きい程度の小さな紙片である。
 事故や故障が起きずとも、乗客の多い駅では乗降が規定の時間内に間に合わない状況が慢性化している為、ほぼ毎日のように数分単位の遅延が生じる。だから大抵、遅延証明書が配られていなくても、駅員に「○○線が遅れた」と言えば、いつでも遅延証明書は貰える。日本では改札を出ずに乗り換えられる路線も多く、急いでいる際に遅延証明書を当該路線で貰おうとすれば更に到着が遅れる為、目的地の駅の窓口でそのように訴えれば、大体遅延証明書を手に入れられる。

 アルバイトをしていた大学生の頃、朝バイト先に向かう途中で人身事故が原因の盛大な運転見合わせに遭遇した時の話だ。30分以上も電車が止まった為、遅刻はどうやっても免れない状況だった。自分は時間給制のアルバイトであり、働いた時間分の時給しか貰えない立場だった。どうせ遅延証明書を貰ってもその分の時給が貰えるわけでもないし、同じ路線で通勤する社員もいたので、遅刻の理由は事故による運転見合わせだと明らかだろうから、遅延証明は必要はないと思って貰わなかった。
 約30分遅れでバイト先に到着して、並んでいるタイムカードを見ると、社員のカードには軒並み遅延証明書が添えられていた。それを経理のおばさんが回収する仕組みになっていた。当時その会社でバイトしているのは自分だけで、他は皆社員だった。遅延証明書をタイムカードに添付してないのも自分だけだった。
 昼休みにその経理のおばさんに呼ばれた。「何で遅延証明書ないの?ないと寝坊したのと一緒だけど」と厭味ったらしく言われた。いやいや、あなたもその人身事故で運転見合わせになった路線の利用者なんだから、遅刻の理由は明らかでしょ?と思った。遅延証明書を出してもその分の時給くれないのに何言ってんの?とも思った。杓子定規で馬鹿げたことの典型的な例を厭味ったらしく言われたのでとても腹が立った。前述のように、遅延証明書なんて駅員に言えば誰でも貰えるものだし、ムカッときたので「これからは寝坊した時も遅延証明書貰ってきますね」と言い返した。
 このようなケースでも、遅延証明書を杓子定規に貰っておくのが社会の常識、だとは今も思っていないが、この経理のおばさんのような人もいるので、転ばぬ先の杖として証明書を貰っておくのは必要なことだ、ということも学んだ。


 こんな風に一般市民のレベルでも何かを証明する為の書類は非常に重要である。以前外国人の友人が、たまたまホテルにパスポートを忘れてきた際に職質され、身分証明書がなくて大変な思いをしたことがある。5/31の投稿で取り上げた警察官による外国人への不当な拘束などからも分かるように、警察は間違いなく外国人に対する偏見に満ちている。
 日本人に対してだって違法な職務質問強要/持ち物検査強要が起きていて、自分も何度か経験がある。そんな国に観光にきたら、肌身離さずパスポート/身分証を持ち歩くのは、前段の話同様に転ばぬ先の杖かもしれない。おもてなしの国が聞いて呆れる。


 何が言いたいのかと言えば、やはり証明/記録の重要さだ。だが、現政権の下では頻繁に記録が捏造されたり改竄されたりしてきた。それを指摘された現政権は、昨年ごろから、そもそも記録がない、作らないと言い出すケースが増えた。
 昨日もそんな話が2つも聞こえてきた。

政権の意思決定また不透明に 検察庁法巡り法相が約束した文書いまだ「作成中」 - 毎日新聞

専門家会議の議事録、作成検討 | 政治行政 | カナロコ by 神奈川新聞


 前者は、コロナ危機に乗じた火事場泥棒と批判され、政府や与党が採決を見送ることになった検察庁法改正案に関する話で、法案の成案ができた段階で作成すると説明していた法案策定過程を記した文書について、法務大臣が、閣議決定から2カ月半が経過してもいまだに作成中と説明している、という話である。まるで出前の遅さを催促された蕎麦屋が「今出ました!」と言い逃れるかのような対応だ。何の為にそんな時間稼ぎをしているのか。これまでの現政権の振舞いを勘案すれば、文書の捏造と整合性チェックの為に時間がかかっているのでは?と疑いたくなる。
 後者は、コロナ危機対応の為の政府専門家会議の議事録に関する記事で、現在は未作成だが、政府が議事録について作成することも含めた検討に入った、という内容である。そもそも、議事録がなくてどうやって後に対応が妥当だったか否かを検証するつもりなのか?という話だし、5/29の投稿でも指摘したように、 3月に現政府はコロナ危機を歴史的緊急事態だとし、会議の記録を義務化すると表明していたのに、今更議事録作成を検討?無責任も甚だしい。これも「議事録について捏造する準備に入った」が実状に即しているのではないか?と言いたい。


 記録を残すことは近代国家・民主主義の大前提だ。それ以外でも記録を残すことはとても重要である。記録が残されていなければ過去を検証することがままならず、同じ過ちを繰り返す恐れが生じる。こんな風に記録を軽んじる政権をこれからも続けされるのであれば、日本はロシアのようにG7を外されるだろう。G20に残れるかも怪しい。記録を残さない相手とフェアな交渉をしてくれる国もなさそうだ。場合によっては言いように言いくるめられる。
 そんな未来をどう思うのか、が日本の全ての有権者に問われる状況にある。


 トップ画像は、Photo by Annie Spratt on Unsplash と、シール 認定シール 認定 - Pixabayの無料画像 を組み合わせて加工した。

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