Dodge / ダッジ と言えば、クルマ好きの自分がまず想像するのはアメリカの自動車ブランドである。草創期はフォードとの関係が深かったが、現在はクライスラー、というかFCA・フィアットクライスラーオートモービルズの1ブランドになっている。ブランド名は創業者のダッジ兄弟に由来する(ダッジ - Wikipedia)。
Dodge には固有名詞以外に動詞の用法もあり、
- サッと避ける
- ひらりと身をかわす
- 巧みに誤魔化す
3の意味は、責任追求から身をかわす、というニュアンスや、質問に答えずはぐらかす、のようなニュアンスの用法で、
- dodge one's responsibility / 責任を巧みに回避する
- dodging the point / 話の要点をはぐらかす
私は「口が立つ」「口喧嘩で負けたことがない」という人にしばしば出くわすが、そう自認している人の多くが得意とするのは、討論ではなく論点ずらしの場合が結構多い。あくまでも自分調べでしかないが、その種の人は、程度の差はあれどほぼ間違いなく論点ずらしをやる。相手に違和感を持たれないように、または合理性を担保した範囲で微妙に論点をずらすことでやり取りを優位に進めようとする人もいるが、強引に自分に都合のよい話へ論点を変え、指摘されても止めずに押し通す人も決して少なくない。典型的なのは英語で「Whataboutism」と呼ばれる、相手の論点に直接反論せずに、別の話を持ち出す論法だ。日本語版Wikipediaではそっちこそどうなんだ主義と訳されている。
例えば、男尊女卑への批判に対して「女が優位な場面もある、男が不当な扱いを受けていることもある、なぜあなたはそれは批判しないんだ」と反論する男性(稀に名誉男性を気取る女性)がいるが、不当な扱いを受けているなら「○○はそれに触れない」と批判するよりも、まずは自分がそう問題提起すればいい。またその論法が妥当だとしたら、そもそも、日本だけでなく概ね世界中どの社会を見ても、まだまだ女性の地位が男性に比べて低い場合の方が圧倒的に多いのに、その批判に対して、男性が不利に扱われるケースを、あたかも男尊女卑と同程度の問題かのように言うことで、結果的に男尊女卑への批判を抑え込むこと自体が、男尊女卑の肯定とも言えるのではないだろう。
連日話題にしている #BlackLivesMatter に関しても同様に、「日本には黒人などほとんどいないのに何故それに注目し、同じアジアのウイグルの問題を強調しないんだ」のようなことを言う人がいるが、#BlackLivesMatter は字面にはBlackとあるものの、実際には人種差別への反対運動なので、日本に黒人が多いか少ないかは大して重要な点ではない。そして黒人を含む外国人への差別は日本にも確実にある。更に、なぜ #BlackLivesMatter に言及する際にウイグルの問題にも触れなくてはならないのか。
それらは民族差別/人種差別という意味では同種だが、狭義の事案としては別であり、ウイグル問題への注目度が低いと感じるなら、そう感じた人がどんどん声を上げればよい。
プロインタビュアーを自負する吉田 豪さんが、昨日こんな記事のことをツイートしていた。
つるの剛士「普通の声で」がトーンポリシングでも、わたしは人を語り口や態度で判断する - QJWeb クイックジャパンウェブ
これはエッセイストの萩原 魚雷さんが描いた記事だ。6/3の投稿「普通という表現はとても曖昧、普通は普通でない」、6/4の投稿「「誤解」の濫用」でも取り上げた、今野 英明さんという音楽家のツイート、
声高に平和を訴える人ほど攻撃的を、俳優/タレントのつるの 剛士さんが
声高に差別反対を訴える人ほど差別的
声高に誹謗中傷を責める人ほど言葉が汚い
普通の声で言おうよ、正しいことなら
普通の声で、とコメント付きで引用リツイートしたことが、トーンポリシングだと批判された件に関する記事である。
ほんまこれ。
自分はこの記事の見出しに強い違和感を覚えた。「つるの剛士「普通の声で」がトーンポリシングでも、わたしは人を語り口や態度で判断する」という見出しが付けられているが、つるのさん(や元ツイートをした今野さん)への「トーンポリシング」という批判は、人を口調や態度で判断するな、という批判ではなく。口調の問題に論点をすり替えるな、である。口調や態度を判断材料の1つにすることは何も問題としていない。中にはそんな批判をした人もいたのかもしれないが、それは間違いなく稀なケースであり、概ね口調の問題に論点をすり替えるなという批判だった。
トーンポリシングは比較的最近注目され始めた概念であり、強い共通認識に乏しいというのも事実だろうが、Wikipediaのトーンポリシングのページでも、
発言の内容ではなく、それが発せられた口調や論調を非難することによって、発言の妥当性を損なう目的で行われるとされており、口調や態度を判断材料にすることの是非はトーンポリシングとは別の話である。つまり、今野さんやつるのさんのツイートが論点をずらしたい主張だと強く感じられたのと同様に、この見出しを使った記事もまた、トーンポリシングという批判とは直接的には関係がない話へ論点をスライドさせたい、という意図が強く感じられる。
当然見出しだけで記事を判断することは良くないし、少し前にこんなツイートも目にした。
Webの記事、本文を読まずにタイトルだけ見て批判されることがよくあるのだけれど、タイトルの決定権は編集部側が持っていることも多くライター側からはアンコントロールな部分が大きいので、できれば本文を読んでからご意見いただけると助かります— 吉川ばんび (@bambi_yoshikawa) June 10, 2020
本文に沿わない見出しを付けられたのなら、読者に理解を求める前にまずは、筆者自身不適当な見出しを付けた編集に異論を呈さなくてはならないのではないか、とも思うものの、そうだとしても記事について論じるなら本文を読んでからにすべきだ、というのも至極妥当な話である。
なので、というかこのツイートを読まなくても以前からそうしているが、見出しが気になったので本文も読んでみた。記事を読むと、萩原 魚雷さんが言いたいのは「自分は抑えたトーンでのコミュニケーションを望む」ということのようで、つるのさんの件は話のフック、取っ掛かりみたいなもので、この投稿で言うところの Dodge に関する話みたいなもののようにも感じた。
しかし、そんな内容であっても、「つるの剛士「普通の声で」がトーンポリシングでも、わたしは人を語り口や態度で判断する」という見出しをつければ、そこに論点をずらしたいという意図を感じずにはいられない。その見出しが明らかに内容と乖離した異なるニュアンスとも言い難い。
萩原さんがどのような反応をするのかは定かでないが、このような批判をすると、「私が伝えたかったのは、自分は抑えたトーンでのコミュニケーションを望む」ということであり、そんな風に受け止められるのは心外だ」のような反応を示す人もいる。特にSNS上、文字数に限りのあるツイッターでは特に多い。
確かに、全く書かれていないことを、あたかも相手がそう主張したかのように曲解する人も昨今少なくない。それもまた事実である。だがツイッターの性質上、当該ツイートには書かれていなくても、それまでのツイートや、メディアへの露出が多い人であればそこでの振舞いなども勘案して判断されるのは当然だろうし、今回自分が批判の対象とした萩原さんの記事のように、相応に文字数を割いて表現した記事であれば、こちらが全く書かれていないことを書いたことにして批判しているのなら話は別だが、明らかに合理性に欠いた受け止めでもない限り、そちらの伝達力が欠如している恐れも考慮して欲しいし、言いたいことが伝わらないのは文筆を生業にするプロ、表現を生業にする者ならば、尚更致命的だろう。
一応念押ししておくが、自分の批判に対して、萩原さんが「私が伝えたかったのは、自分は抑えたトーンでのコミュニケーションを望む」ということであり、そんな風に受け止められるのは心外だ」という反応を示したという事実はなく、これはあくまでも仮定の話を用いた例である。
前述の吉川ばんびさんのツイートを見て、本文に沿わない見出しを付けられたのなら、読者に理解を求める前にまずは、筆者自体が編集に異論を呈さなくてはならないのではないか、と感じたは、不適当な見出しが付けられてしまえば、筆者が言いたいことが伝わりづらくなってしまい、その記事を書いた筆者自身が最も不利益を受けることになるので、まず自身が編集へ抗議する必要がある、という思いからでもある。
不適当な見出しは、筆者の伝えたいこと、記事本文の印象すら変えてしまうこもある。
トップ画像は、Photo by @plqml // felipe pelaquim on Unsplash を使用した。