スキップしてメイン コンテンツに移動
 

誰かの主観が、=日系人の総意、のようなことにもなりかねない危うさ


  白人が非白人を演じるホワイトウォッシュ、異性愛者が同性愛者を演じた際に起きる批判などが最近ちょくちょく話題になるが、「文化の盗用」も近年日本でもしばしば話題になる。つい先日ホワイトウォッシングの問題の本質はどこにあるのか、という自分なりの考察を投稿したし、文化の盗用についても、2017年2/18の投稿で自分の思いを書いている。

 一応再確認しておくと、文化の盗用 - Wikipedia の冒頭では、
文化の盗用(ぶんかのとうよう 英: Cultural appropriation)とは、ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為である。少数民族など社会的少数者の文化に対して行った場合、論争の的になりやすい
と説明している。但し、
社会的少数派の文化から流用された要素は多数派に所属する者たちによって元の文脈から外れて使用され、時には少数派が明示的に示した希望に反する形で使われることもあることから、文化の盗用はアカルチュレーションや対等な文化交流とは異なり植民地主義の一形態であるとされる
文化的な要素が元の文脈から切り離され本来の意味が失われたり歪められたりすることは、流用元の文化に対する冒涜であるという指摘もある。
ともあり、その背景には植民地と宗主国の関係性や、白人の優位性が高い社会構造の矛盾などが確実にある。つまりホワイトウォッシュ問題同様に、単純に「ある文化圏の要素を他の文化圏の者が流用する行為」と捉えるのは短絡的だろう。
 しかし昨今、そのような短絡的な認識に基づいた問題提起も決して少なくない、というのが自分の思いであり、それを示したのが前述の2017年の投稿で、その思いは今も変化していない。


 この投稿で再び文化の盗用について書いたきっかけは、カメルーン生まれ日本育ちの漫画家・星野 ルネさんがこのツイートを昨日しており、反応が多く示されていたからだ。


 ゴーストオブツシマというゲームが「文化の盗用だ」という指摘を受けている、ということに関して、星野さんがその思いをマンガにしている。このゲームのことは知っていたが、文化の盗用だという指摘を受けている、という話はこのマンガで初めて知った。

 ゴーストオブツシマのツシマは長崎県の対馬のことで、鎌倉時代の史実・元寇を題材にした和風アクションゲームであるが、プレイステーションの開発製造販売を行っているSIE・ソニー インタラクティブエンタテインメント傘下の、米国のゲーム開発会社による作品だ。ゲームの世界観は「ゴースト・オブ・ツシマ:米国発の侍ゲームが世界で人気 感じる“和の心”(河村鳴紘) - 個人 - Yahoo!ニュース」で詳しく説明されている。


 ゴーストオブツシマは歴史的事象を下敷きにしているが、勿論ノンフィクションではなく架空の設定や演出も多く含まれたエンターテインメント作品だ。日本の歴史上の事実を下敷きにしたゲームは、これまでにも源平討魔伝や鬼武者などいくつも作られてきた。ゲーム以外でも映画やドラマ・マンガなども多く作られている。その代表的な存在はNHKの大河ドラマで、今年の「麒麟が来る」では、戦国時代ではありえない程鮮やかな衣装を庶民までが着ている。担当者は「基本的には考証に基づいて、きらびやかというか、原色の色使いの衣装にしている」としているが、上級武士や貴族はまだしも、庶民や農民まで、誰もが汚れもかすれも殆どない極彩色の着物姿なのは不自然に見えて仕方ない。

大河ドラマ衣装、目がチカチカ? 担当「考証に基づく」:朝日新聞デジタル


 ゴーストオブツシマは何故「文化の盗用」と指摘されているのか。GoogleやSNSで検索してみると、非日本人が日本の侍をテーマにしたゲームを作ったから、という理由に因るというのが実態のようだ。そしてそれに対する日本人の概ねの反応は「そんなことは問題にならない」のようなのだが、どうやら在米日系人(若しくはそう称する人)が、日本人と在米日系人の感覚は異なる、という趣旨の主張をしているようだ。

 それは星野さんのマンガに対するリプライにも表れている。星野さんは、


ともツイートしているのだが、自分は星野さんのこの聞き方を見て、
誰かの主観が、=日系人の総意、のようなことにもなりかねない危うさ
を感じた。誰かが「日系人としての自分の所感」を表明することには何も問題はない。しかし、個人の主観でしかない所感を、あたかも日系人、少なくとも在米日系人の総意かのように、「日系は」という主語で語ることは適切とは言い難い
 例えば、


このケイティ ペリーさんが芸者に扮したアメリカンミュージックアワード2013でのパフォーマンスに関しても、本当に日系人の多数が不快だと感じたのか、は定かでなく、この人の個人的な好みの問題なのか、日系人の総意と言える感覚なのか判断は難しい。
 またこのツイートは「日系から見たら」としているが、


これも同様に、この人の主観なのか、それとも本当に米国日系人の多くがそう感じているのか、そう考えているのか、を判断することは中々難しい。
 その旨ツイートしたところ、


というリプライがあった。つまり、そのような話は決して日系人の総意ではなく、この人の個人的な見解/好みの問題に過ぎない、ということだろう。

 勿論、前述の星野さんの「日系の方が嫌だったもので記憶があるものは何かありますか?」というツイートに対するリプライの中には、妥当性が感じられるものもあったが、これらのように、本当にそれは問題なの?というようなものも少なくない、というか寧ろ多いと言っても過言ではない。
 そもそも、誰かが見て不快だから止めろ、不快というだけで表現を規制出来てしまう、としたら、それは多様性を否定することにもなりかねない。もし欧米人に「欧米人以外が洋服を着るのは不快だから止めろ」と言われたら、欧米由来の衣服を着ることを止めなくてはならなくなるのではないか。また2017年の投稿にも書いたが、 日本だって中華料理・フランス料理・イタリア料理などをかなりアレンジしており、それぞれの国での料理との違いを理解していない日本人も大勢いるじゃないかという反発をされたら、多くの日本人が困ることになるのではないか。「それはアメリカの食文化だから、日系人はハンバーガーを売るな、作るな、食べるな」などと言われた場合にどうするつもりなのだろうか。


 つまり、個人的な見解を、あたかも自分の属する集合の総意かのように、過大に表現することは適切でないし、不快だから止めろと、不快だから、という理由だけで何かを規制できる、と考えるのは諸刃の剣であり、それは自分の首を絞めることになりかねない


 トップ画像は、Photo by Tony Wan on Unsplash を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。