身を寄せるならば大木の下が安全である、という事を言い合わらす 寄らば大樹の陰 という慣用句がある。どうせ頼るならば勢力のある人/側のほうがよい、ということを意味する(寄らば大樹の陰とは - コトバンク)。確かに傘の代わりにするのなら、小さく頼りない木よりも大きい木の方が都合がいいし安心感がある。だが雷に打たれる確立が上がると考えれば、必ずしも寄らば大樹とは言えないかもしれない。
9/6の投稿で「長い物には巻かれておくのが賢い生き方、大人の振舞いみたいな認識を、決して少なくない日本人が持っている」と書いた。9/9の投稿、9/11の投稿でも再びそれに触れた。寄らば大樹の陰も、この長い物には巻かれろのようなニュアンスで用いられる場合がある。
つい先ほど、フリーのジャーナリスト・志葉 玲さんが
政治や社会問題全般に言えることだけどさ。
— 志葉玲 『13歳からの環境問題』好評発売中 (@reishiva) September 23, 2020
日本の人々って「偏らない」とか「中立」とか大好きすぎだけど、現状に何の疑問も持たず意志も表明しないなら、無自覚に体制の側にいるわけで。
それは「偏ってない」わけでも「中立」でもないんだよ。
とツイートしていた。クラス内で誰かがいじめられているケースに置き換えて考えれば、誰かがいじめられているのを知っているのに見過ごす、指摘も批判もしないという振る舞いが、いかに中立でも公平でもないか、が簡単に分かる。いじめている側が多数派であっても、寄らば大樹の陰は間違いである。しかし大人がそれをやってしまっている現実が日本にはある。そんな簡単なことを大人が見失うのは、やはり教育の失敗なんだろうか。この辺りにも、ものごとの道理よりも長い物には巻かれろ、寄らば大樹の陰が優先されている、つまり多数派優先の傾向を感じる。道理よりもどちらの勢力の方が多数派か、ということで損得勘定し、指摘も批判もしないという選択をする人が多いように感じる。
また恐ろしいことにSNS上には、いいねやリツイートなどの数が多ければそれは正しい話、と認識している人も少なからずいる。数を頼りに正確性や合理性を計ろうとするのは非常に危険だ。戦前ドイツの国民は、民主的な方法でナチを選択したが、果たしてナチを選択したことは正しかっただろうか。合理的な判断だっただろうか。ものごとの道理を考えずに長い物には巻かれろ、寄らば大樹の陰を偏重し、多数派こそが正義という認識に陥ると大変なことにもなりかねない。
子どもに「選択肢」を示して、自分で決めてもらう。 “身長100センチのママ”の子育て | ハフポスト LIFE
という記事の中で、骨形成不全症という障害をもつコラムニストの伊是 名夏子さんが、選ぶことと決めることの大切さを語っている。選ぶことと決めることは、考えることなしには出来ないので、選択と決定をさせる/することはとても重要だ。考えないで選んだり決めたりすると大変なことになる、ということを知ること/体験することもまた、とても重要である。
幼い頃に選択と決定を自分でしてこなかった/させてもらえなかった人が大人になると、ものごとの道理を考えずに数を主な判断基準にする、長い物には巻かれろ、寄らば大樹の陰を偏重する人になりがちなんだろう。
前述の志葉さんのツイートは、日本の主要メディア、特にテレビ各社の政治や社会問題に対するスタンスを念頭においた話だと思う。なぜなら、彼は9/17にこんな記事を書いているからだ。
なぜ望月記者は同業に嘲笑されたか?菅政権の今後を象徴する、ある「事件」(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース
権力の不備を強く批判しないことを、あたかも中立や公正かのように振舞っているメディアの多さ、報道各社の政治部や特に官邸周辺の記者たちには自分も閉口している。
昨日はメディアがこぞって「元TOKIOの山口達也容疑者を逮捕 酒気帯び運転の疑い」と報じていた。ハッキリ言って気持ちが悪い、というかもう報道機関としての矜持は、日本のメディアにはないんだろうな、とさえ感じた。確かに、飲酒/酒気帯び運転は重大事故の原因にもなりかねない言語道断な行為だ。しかし、重大事故を起こしたわけでもないのに、メディア各社がこぞってわざわざ取り上げるようなことなのか。それはゴシップ紙の役割ではないのか。
例えば、芸能人が酒気帯び運転を犯したのなら、広義のメディア関係者に当たるだろうから、全く取り上げる価値がないとまでは言いにくい。しかし山口さんは既に芸能事務所から契約解除されており、事実上解雇されている。芸能人ではない所謂一般人が酒気帯び運転をしただけで、果たしてこれほどまでに大々的に取り上げられるだろうか。
しかも山口さんはアルコール依存症・双極性障害・躁鬱病の疑いもあるとされている。勿論、病が理由でも酒気帯び運転は許されない。しかし、これほどまでにメディアが大々的に取り上げると彼を更に追い込む恐れがある、とメディア関係者は誰も考えないのだろうか。視聴率や売上に繋がれば、そんなことも厭わないということなのだろうか。
そして、数を頼りに正確性や合理性を計ろうとする人達が、多くのメディアが報じているのだからそれは正しいこと、という認識に陥り、こんな報道や風潮に疑問すら持たない、という悪循環が日本の社会には間違いなくある。
トップ画像は、Photo by Gilly Stewart on Unsplash を加工して使用した。