バーチャルリアリティー、VRという言葉や、ヘッドマウントディスプレイを装着して仮想現実を体験するという概念を初めて知ったのは、多分90年代だった。しかし当時はディスプレイの技術も画像処理技術もまだまだ低く、当時のVRはハッキリ言って子供だましだった。
今はお台場1店舗のみのジョイポリスだが(2018年に渋谷にできたVR特化型の施設は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で営業を休止していたが、再開することなく2020年6月末で閉店した)、90年代には国内に数店舗あっって、その第1号店は横浜だった。横浜ジョイポリスの目玉アトラクションの1つに、ヘッドマウントディスプレイを使用する
VR-1 スペースミッション
があったのだが、体験前の想像を遥かに下回るクオリティで、騙された感でいっぱいだった記憶がある。
Sega VR-1: Space Mission - Yokohama Joypolis (横浜ジョイポリス) - 1995 - YouTube
それから約20年後の2010年代半ばになって、やっと当時想像したレベルのヘッドマウントディスプレイが登場し、最近になってやっと当時思い描いたVRが現実になった、という感がある。その間何度か、VRのような何か、が登場したが、それらのヘッドマウントディスプレイはヘッドトラッキング機能を持たず、視点の変化を再現できない為、単に頭部/眼前に装着するディスプレイでしかなく、VRとは異なるものでしかなかった。
VR同様に、1990年代に話題になったものの、その当時説明された概念と実態が大きくかけ離れていたものに、A.I.
: artificial intelligence、人工知能がある。
自分が初めてAIという概念を知ったのはいつだったか、その記憶は曖昧だが、恐らくファミコンのドラゴンクエスト4が最初だった。ドラクエシリーズは、1では勇者1人で冒険、2は2人の仲間と3人で、3では3人の仲間と4人で冒険する設定だった。3までは戦闘シーンでの仲間の全ての行動をプレイヤーが決めていた。4は全5章のストーリーとなり、1-4章ではそれぞれのキャラクターをプレイヤーが操作するのだが、5章では1-4章に登場した8人のキャラクターが集結し、主人公以外はノンプレイヤーキャラとなる。プレイヤーは、主人公以外には、誰が戦闘に参加するのか、どのような方針で行動して貰うのかを示す作戦の提示しかできない。ドラクエ4ではこれをAI戦闘と呼び、搭載したAIによってキャラクターがそれぞれ独自に戦闘における行動を決めると謳っていた。
ファミコンのゲームのプログラミングなので、ドラクエ4のそれはAIと呼べるような代物ではなかった。従来のアルゴリズムの域を出ないものを、箔をつける為にそう呼んでいるに過ぎなかったのだろう。
トップ画像に用いたのは、2001年に公開されたスティーブン スピルバーグ監督作品「A.I.」のロゴだ。この作品のタイトルはAIであるものの、どちらかと言えばAIというよりもアンドロイドの話だ。但し、登場するアンドロイドたちは、人間のように自ら思考する人工知能を搭載している設定である。この頃はまだ、AIとアンドロイドの概念は混同されることが多かった。A.I.と同様に、人工知能を持つアンドロイドたちがテーマのテレビドラマシリーズが、2015年から2018年にかけて英米合作で制作されたが、そのタイトルは「ヒューマンズ」だったし、人工知能はあまり前面に押し出されていなかったのも興味深い。
AIは果たして、VR同様に、1990年代から20-30年の期間を経て、当時説明された概念が実現しただろうか。色々な見解があるんだろうが、個人的には、実現していない、としか言えない。明らかに当時よりも進歩はしているものの、それでもまだ決して賢いとは言えないのが実状だ。
そう思う理由は複数あって、数日前に機動戦士ガンダムに出てくる攻撃空母・ガウの機体の色は紫か、水色がかったグレーだったかを調べようと「ガウ」でGoogle検索した結果がこれだった。
ガンダムのガウよりも、タレントのマリア テレサ
ガウが上位に表示された。それは全然構わない。ガウとしか入力しなかったのだから仕方がない。しかし検索結果としてGoogleが提示したマリア
テレサ ガウの写真は有吉
弘行だった。どうしたらこんな勘違いが生まれるんだろうか。全くその経緯が分からない。
2019年1/6の投稿でも書いたように、同じ様なことが以前にも何度かあった。これまで自分が目の当たりにした中で最も深刻な間違いは、「相模原障害者施設殺傷事件」でGoogle検索した際に、伊集院 光がまるで犯人かのように表示されたケースだ。因みにこれは2019年3月頃の話で、現在は伊集院 光の画像は表示されない。
昨日一時的にツイッターアカウントを凍結された能町 みね子が、ツイッター側から提示された内容をツイートしていた。
うーん…… pic.twitter.com/qfktIGdDaT
— じめじめした文筆業🏳️🌈 (@nmcmnc) June 22, 2021
自分は能町 みね子をフォローしている。また、フォローしている人のツイ―トは基本的に全て目を通す。だから目を通せなくなるような人数をフォローしない。 つまり能町 みね子のツイ―トは、ほぼ全て、少なくとも数年間毎日見ている。その結果、ツイッターが能町 みね子のアカウントを、スパムを自動生成するアカウントとして検出し、凍結という処分を科した、という話には、全く合理性を感じられない。能町はしばしば汚い言葉使いをすることもあるが、スパムを自動生成しているなんて一体どこから判断されたのか? という感しかない。
もしこれが事実であれば、ツイッターのAIは相当出来が悪い。というかそもそもAIとは書かれていないので、スパムを自動生成するアカウントを検出して削除するシステムにAIなど使われておらず、非常に出来の悪いシステムと言った方が正確なのかもしれない。
ツイッターに限らず、他のSNSやYoutubeなどでも、明らかに差別的、蔑視が放置される一方で、不可解な削除やアカウント停止処分が行われている。それらは間違いなく自動化処理が用いられている。つまり、現段階ではAIなんてまだそんなレベルでしかない。個人的には、ファミコン・ドラクエ4がAIと謳っていたものと、判断のレベルに差を感じられない。
自動的に学習すると言えるレベルのAIが実際にあるんだとしても、人間の子どもが最も身近な大人、親や先生に強く影響を受けるのと同様に、AIだって制作者や運営者の影響を強く受けるだろう。つまり、AIが今後進歩して、その判断のレベルが人間並みにはなれても、恐らく人間以上に賢い判断をするようにはならないんだろう。
90年代同様に今もまだAIに対する強い幻想のような期待感的なものがあるが、そんなことを目の当たりにすると、昨日の投稿で、画像編集や修正、絵を描くことなど芸術活動の自動化が進んでも、それは結局効率化の手段にしかならない、と書いたことと同じ様に、AIは今後も当分の間は、効率化の手段の域を出ないんだろうと感じる。