日本は差別の多い国だ。と言うと、間違いなく「他にも差別の多い国はある」「差別的な人もいるが、そうでない人も大勢いる」などの反論が出る。しかし、まず前者は、他にも差別の多い国がある、だから日本の差別は多いとは言えない、ということには必ずしもならない。日本よりも差別の少ない国もあって、それに比べたら多いことに違いない。結局は「何を以て多いとするか」なのだが、後者も、差別的でない人も多いことは、必ずしも差別が少ないとイコールではない。厳しく言えば、どちらも論点をずらそうする類の反論でしかない。
「日本は○○と比べて差別の多い国だ」という話であれば、それが正しい認識か否かは、漠然と「日本は差別の多い国だ」と言うよりは論じやすいだろう。それは2つ以上のサンプルによる相対的な比較だからだ。しかし後者は、何かと比べてという話ではない絶対的な意味での差別の多さを言っている。つまり、日本における差別の現状を、深刻と捉えるか取るに足らないと捉えるか、のような観点での話だ。
冒頭で出した例のように、日本よりも差別のひどい国と比べて「多くない」としたり、過去の日本の状況と比べて「昔よりは少ない」と認識する人もいるだろう。その話に全く整合性がないとは言わない。しかし、それは多分「今の日本社会に差別はそれ程多くない」という結論を導くために選択された根拠であって、つまり、差別に対する無関心や無頓着の表れだろう。
2019年8/17の投稿で映画「ひろしま」に触れ、日本では今も昔も自己責任論が根強い、ということを書いた。「ひろしま」の冒頭では、1950年頃の中学校の様子が描かれており、ある被爆者の女生徒が白血病で倒れるシーンから始まる。別の被爆者の女生徒が教室で「最近暑くてだるい・調子が悪い」と訴えと、男子生徒が「暑ければだるいのは当然」のように茶化す。それに対して別の男子生徒が「(被爆者が不調を訴えたり、偏見を持たれていると訴えると)君たちはすぐに原爆を鼻にかけているとか、原爆に甘えていると言って笑うんだ」と言うのだ。
これを見た当時真っ先に頭に浮かんだのは、東日本大震災や福島原発事故で避難を余儀なくされた人達に対して、一部の人達が「いつまで甘えているんだ」などと言うことだった。未だに帰宅困難地域が残り、解除された地域も決して震災以前とは程遠い状況なのに。
同じような例は他にもあって、例えば戦争で親を亡くした戦災孤児らを、戦後大人たち、行政などがよってたかって邪魔者扱いし排除したこと、日本ではいまでもに新卒優遇が根強く、当時は今以上で、新卒で正規雇用に辿り着けなかった人の雇用環境は今も昔も厳しいのにも関わらず、バブル崩壊後の就職氷河期世代に対する「収入が少ないのは自業自得、社会の所為にするな」みたいな風潮が決して少なくないことなども、その典型的な例だ。
つまり今も昔も、日本社会には間違いなく偏見や差別が根強い。何かしらの被差別に直面していなければ「日本の差別は少ない」と感じる、そうであると思いたくなるのは、ある意味で自然なことだろうが、それぞれの自分の周辺だけが日本の全てではなし、実際に存在する差別や偏見を見ない、見えているのに目を逸らすのは、果たして人として胸を張れる行為だろうか。
日本には差別が根強く残っている、日本は差別の多い国、と言える根拠は、3/27の投稿でも書いた。在日コリアンを中心とした外国人、外国にルーツを持つ人達への人種民族差別、そして、5/21の投稿で書いた、政府与党も平然とやっている同性愛差別などもあるが、日本でも最も規模の大きな差別は女性差別である。国民の約半分は女性であり、そして日本の男女格差は世界的にも最悪なレベルであり、私学だけでなく公立校の入試ですら女性差別が行われているのだから、どう考えても「日本の差別は比較的少ない」なんて言えない。
先日、某大学の先生から、私のブログに掲載されている「ホームレス排除ベンチ」の写真を、授業で紹介させてほしいという連絡をいただき快諾しました。その後、授業で紹介したという連絡をいただいたのですが(続) pic.twitter.com/4wYGI5foP7
— 早川由美子Yumiko Hayakawa (@brianandco) June 2, 2021
こんなツイートが昨日タイムラインに流れてきた。このようなホームレス排除ベンチや造形物が問題視され始めたのは昨日今日のことではないが、これぞまさに日本の人権意識の低さ、差別に対する認識の低さの象徴ではないだろうか。
例えば、日本の社会保障制度が世界でもトップレベルに充実しているにも関わらず、そのような制度を行政が積極的に斡旋しても使おうともせずに、公共空間の不正占有をしたがる人が大勢いる、という状況であれば、このような設置物による対策がなされるのも理解はできる。
しかし現実はそうではない。まずそもそも社会保障制度が不十分で、不十分なだけでなく「生活保護は甘え」という空気が社会全体を根強く支配しており、行政機関が申請者を極力追い返そうとしているのが現実だ。例えば都は、支援団体による困窮者への食料配布を、都庁の敷地から排除している(野宿者への食料配布、都庁「敷地利用×」 コロナ禍160人に退去迫る 「大雨でもルールだから」:東京新聞 TOKYO Web)。「生活保護申請「門前払い」の一部始終を20代女性が録音 頻発する「水際作戦」の実態とは (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)」のような、生活保護申請追い返しは枚挙に暇がない。
日本の入管が収容者に対して非人道的な扱いをしている、という話は、もう何年も前から指摘され続けており、国内だけでなく国外からも批判されている(入管改正案「国際水準達せず」 国連の人権専門家が書簡:朝日新聞デジタル)。入管の問題について、入管だけの問題と認識している人も多いのだろうが、それは決してそうとは言えない。
前述のようなホームレス排除の設置物、生活保護申請を行政が追い返すことが横行する背景には、日本人が、そのような方針の政治家、少なくも、そのような問題に無頓着で差別的な行政を黙認する政治家を選んでいる、ということが確実にある。それは入管の非道も同じで、そのような方針の法務大臣、いや政権を形成する政党を、日本人が選挙で選んでいるから非道がまかり通っているのだ。
だから、ホームレス排除ベンチは日本の人権意識の低さ、差別に対する認識の低さの象徴であり、日本は差別の多い国、Japan is Racist Country、日本は差別主義者の国、と言っても過言ではないのである。