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遵法精神と基本的人権の尊重

 お父さんは憲法違反なの? と自衛官の子どもが涙ながらに尋ねた、というのは、前首相 安倍の、数ある妄言の中の1つである。厳密には、実話か否かその真偽はさだかでないが、当初安倍は、自衛官から直接聞いた、と言っていたが、その後、防衛省担当の首相秘書官を通じて知った、と説明が変わっている。


 更には、国会審議の中で「(実話と証明する)資料を出せというのなら出させていただく」とまで言ったものの、資料は結局今も示されないままで、だからほぼ間違いなく嘘、作り話、妄言の類だ。

<ファクトチェック 安倍政治の6年半>(1)憲法 要件緩和、教育充実… 変わる改憲項目:東京新聞 TOKYO Web

 安倍は昨年・2020年の夏に持病の悪化(これも真偽は怪しい。恐らく詐病)を理由に首相の立場を投げ出し、辞める際には「病気で正しい政治判断ができなくなる」と言っていたのに、今も尚国会議員は辞めていない。そして今年・2021年の3月には、「自衛隊は憲法違反という立て看板が立てられている。その状況に終止符を打つことが私たちの責任だ」と憲法改正の必要性をまた主張している。

 病で正常な政治判断ができない者に国会議員は務まらない。また、正常な政治判断が出来ない者に講演させる自民党新潟県連も本当にどうかしている。勿論、憲法改正云々に言及するのもおかしい。正常な判断ができないということも既に自認できない程に、病が進行しているんだろう。

 今、安倍の後を継いだ菅政権が憲法違反を犯している。衆参どちらかの1/4以上による国会開催の要求があれば、内閣は召集を決定しなければならないと憲法に定められているのに、菅内閣と与党自公は野党側の要求を無視して国会召集を拒否し続けている。

臨時国会、いつまで拒否するのか 説明避ける菅政権 自民改憲草案に「20日以内召集」とあるけれど…:東京新聞 TOKYO Web

 内閣と与党自公側の言い分は、憲法には要求から何日以内に召集しなければならないという規定はないから、例年開かれる秋の臨時国会さえ召集すれば、それで憲法違反ではない、という解釈だ。しかし、緊急事態を宣言している内閣が、新型コロナウイルスなどへの対応検討の為に国会召集を要求されているのに、その言い分は無理がある。そして、改憲の必要性を訴える自民が、2012年に示した草案に「20日以内に臨時国会が召集されなければならない」とあるのに、それ以上の召集拒否は全く道理が通らない。
 そもそも、期日の規定がないのであれば、憲法を遵守する精神に富んだ内閣なら、可及的速やかな召集をするだろう。つまり要求されたら即召集しなければならない、と解釈するのが、遵法精神というものだ。それをしていないのだから、現政権は遵法精神に欠ける、憲法を蔑ろにしている、憲法違反を厭わない、と言っても過言ではない。
 そして、同じことは前政権・安倍政権でも起きていて、遵法精神の欠片もない安倍は、いや自民は、憲法を変えようだなんて言えるような立場ですらない


 憲法は国家権力を縛る法律、なんて言い方がしばしばなされる。立法府、つまり国会は国で唯一法律を定めることができる権限を持っている。行政府、つまり内閣は法律に則ってその国を治める権限を持つ機関である。国会がとんでもない法律をつくってしまったり、内閣が偏った法解釈でとんでもない政治をしない為に憲法がある。憲法に反する法律は作れないことになっているし、憲法を無視した法解釈や政治は行えないことになっている。それが所謂立憲主義だ。
 しかし、憲法を遵守しなければならないのは決して国家権力だけではない。全ての法律の基本が憲法であり、全ての国民、いや日本在住者は法律と共に憲法も遵守する必要がある。

 日本では、日本国憲法の三原則は

  • 国民主権
  • 平和主義
  • 基本的人権の尊重

であると教えられる。小学6年の社会科で最初に習ったと記憶しているが、間違いなく義務教育の中学校を卒業するまでには教わるはずだ。国民主権と平和主義は、主に国家権力に対する規定であるが、基本的人権の尊重だけは、国家権力が守らなければならない規定であると共に、全ての日本在住者が守らねばならない規定でもある。

 基本的人権とは、人が生まれながらにして有し、何ものにも侵されることのないいくつかの権利を指す。宗教・良心・思想・学問・言論・出版・身体・集会・結社・居住・移転・職業選択の自由、財産・住居の不可侵、通信の秘密、法定手続の保障や不法な逮捕・抑留・拘禁からの自由、国家権力からの自由などの所謂自由権、そして参政権や、団結権・団体交渉権・争議権など労働基本権、人間らしく生きる権利・生存権、個人が幸福を追求する権利・幸福追求権などの総称が基本的人権である。

 日本国憲法11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」とある。つまり基本的人権は、この憲法が存在する限り未来永劫何ものにも侵すことが出来ない、ということだ。しばしば国民という表現を「日本国民、日本国籍を持つ者」と解釈する者が現れるが、その解釈が正しいのであれば、日本は外国人の権利を認めない国ということになり、諸外国から軽蔑され、またその規定、若しくは解釈を改めるまで、制裁が加えられることにだろう。

 数日前に「自分にとって必要の無い命は僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 邪魔だしさ。プラスになんないしさ、臭いしさ。治安悪くなるしさ。もともと人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きている。犯罪者を殺すのだって同じ」と主張するバカが現れ、大きな波紋が広がっている。

メンタリストDaiGo氏、ホームレスの人への差別発言で「炎上」 | 毎日新聞

生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」「生活保護の人が生きてても僕は別に得しない。猫は生きてれば僕は癒やされる」などとも主張しており、このバカは基本的人権を無視している。Youtubeでこう主張し、ツイッターなどでも持論を披露しているそうだが、動画サイトやSNSはすぐにアカウント凍結すべきだ。でなければ、扇動に加担していると言われても仕方がない。
 またこのバカの名を冠する書籍が複数の出版社から刊行されているようだが、当該出版社、そしてその本を並べている本屋なども、よく考て振る舞わなければ、同類とされかねない。これはそんなレベルの話である。なぜなら、このバカの主張は、相模原の障害者施設で無差別殺人を起こした犯人や、昨年・2020年12月に渋谷でホームレスの女性を殴り殺した犯人と何も違わないし、このバカの動画サイトアカウントやSNSアカウントには多数の登録者がいて、その中から、感化されて同種の事件を起こすバカが出かねないからだ。


 安倍にもし子どもがいたら、安倍こそ「お父さんは憲法違反なの?」と問われたのではないか。また、基本的人権を蔑ろにするバカも「憲法違反だね」と言わるべき存在だ。安倍や自民の件、そしてこのバカな差別主義者の件からも、如何に憲法が重要か、遵守することが重要か再確認させられる。日本国憲法は詳細を法律で補うタイプの法規であり、時代に合わせた対応は法律で行えばいいのだから、現憲法を安易にいじるべきではない、ということも再確認させられる。


 トップ画像には、イラストストック「時短だ」 – 時短に役立つ素材サイト の素材を使用した。

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