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消極的な排除、実質的な排除

 排除には積極的な排除だけでなく消極的な排除もある。社会における不当な特定属性の排除は、大抵消極的な排除によって、若しくは消極的な排除を装って行われる。

 排除は全てが不当であるとは言えない。排除されて然るべき人、こと、ものは確実にある。例えば、重大な犯罪を犯した人は拘置所や刑務所に収監され、一定期間社会から排除される。勿論、近年頻繁に話題になる入管の問題のように、不当な収監は別だが、基本的にはそのような排除は決して不当ではない。また、暴力的・性的な作品は限定的に社会から排除される。暴力的/性的かどうかの線引きの問題はあるにせよ、その種の排除も決して不当とは言えない。但し、これらの排除はどちらも、合理的根拠に基づいて行われる積極的な排除だ。


    では消極的な排除とはどういうことか。たとえば、人間には誰にでも好き嫌いがある。自分の好みの人とそうでない人、嫌いな人で対応を変えることは、特に問題のある行為とは言えない。内輪な集まりを開いた際に、呼ばれなかった人が「自分を呼ばないのは自分に対する差別だ」と言っても、何か他に好き嫌いにとどまらない理由でもなければ、その主張は妥当とは言えない。もう少し大きな例で言えば、カスタムカーショーを開催する主催者が、その趣向に合わせて出展車両を選び、趣向に合わない車両の出展を断っても、それは差別にはならない。勿論、車両カスタムの方向性ではなく、オーナーの人種や国籍、民族性などによる選別・排除が行われたら、そこには差別の懸念が生じるが、純粋にカスタムの方向性による選別が行われることはごく一般的である。勿論、トラブルを避ける為には、出展車両募集前に基準を明確化しておくことが望ましい。

 近所付き合いの上での齟齬から不仲が生じることはしばしばあって、その一方がもう一方からの挨拶を無視する、のようなことはしばしば起きる。この時点では挨拶を無視する行為は差別的とは言えないが、一方が他の近隣住民を巻き込んで、誰かを地域全体で寄ってたかって無視するような状況になってしまえば、そこには差別の懸念が生じる。
 無視する個人は、それぞれの好き嫌いによる判断という認識でも、それが大多数対ある個人、若しくは少数派という構図になれば、ある個人、少数派がそのコミュニティ全体から無視されている状態になる。学校のクラスで考えるともっと分かりやすい。あの子は好きじゃない、という理由で誰かが誰かを避けること、それ自体には差別性はあまりないが、誰か1人、もしくは2-3人の少数派を、他の全員が避けるようになれば、それは好き嫌いの問題を超えて差別の懸念が生じる。勿論、避けられても仕方がない合理的な根拠、たとえば人のものを盗む常習犯だとか、いつも嘘ばかりついているとか、そのような理由があれば一概に差別とは言えないものの、そのような理由がなければ、好き嫌いの問題を超えて差別が疑われることになる。これが消極的な排除だ。


 この件はまさにその消極的な排除の典型的な例で、断る店が少数派なら概ね問題ないが、大多数を占めるようになると、それは「店にも客を選ぶ自由がある」という話だけでは正当化できない。勿論、店側にも自由はあるし、全ての店が全ての客に対応できるわけでもない。だが、実質的に車椅子お断り社会になった場合、車椅子や障害者でなくても、ある属性の人をそれを理由に断る店が大多数数を占め、実質的に排除される状況になれば、それは間違いなく差別・排除だ。少なくとも日本では差別をする自由は認められていない。

 何かあった時に責任が取れない、だから店は車椅子の客を断る、だから仕方がない、という論法で、断る側の店を擁護する主張も見られるが、お好み焼き屋は子ども連れの客を、子どもが鉄板に手をついて火傷しても責任が取れない、と断るだろうか。断らないだろうし、万が一そんな風に子どもが火傷して、客側が店の責任だと言っても、殆どの店は異議を申し立てるだろう。何かあった時に責任がとれない、なんて話は、車椅子の客を断る合理的な理由にはならない
 本来は車椅子の客に優しい社会であるべきだし、最大の配慮する店が増えることが好ましいが、店がバリアフリーでない、充分に対応できないのだとしても、たとえば入店するのに階段を超えないといけないとか、車椅子が入れるスペースがないのだとしても、人手が足りないので入店時などのサポートはできないけど大丈夫か?とか、車椅子のまま入店できないけどそれでもよいか? などと確認すべきで、何かあった時に責任が取れないから問答無用でお断り、では差別的と言われても仕方がないのではないか。


 これは、これまでにも何度か取り上げた刺青お断りとも同じことだ(刺青問題・偏見に迎合する観光施設)。うちは刺青お断りです、という旅館や入浴施設、プールなどがある。店などがドレスコードを設けること自体は直ちに差別に当たるとは言えないので、刺青お断りの店があってもいいかもしれないが、刺青お断りの店が大多数を占める状況になれば、それは社会的に刺青を入れた人を差別している状況だ。前述の投稿で書いたのでここでは詳しく書かないが、「刺青を不快に思う客もいる」は断る理由として全く合理的でない。誰かが不快に思う”だけ”で排除できるのなら、何でもかんでも社会から排除出来てしまう。自分の趣味趣向が不快という理由だけで社会全般から排除されることを、容認・納得できる人がどれだけいるだろうか。

 車椅子お断りの件について、これは刺青お断りの問題とも同じだ、とツイートしたところ、

と引用リツイートがあった。刺青は入れた人が自分の意思で入れたんだから、断れても仕方がない、と言っている。この人は、自分で選んだTシャツのデザインによって、全ての店に入店を拒否されても、つまり社会から排除されても、それは自分の意思でそのTシャツを選んだんだから仕方がない、と言えるんだろうか。どうやっても共感できないどころか、許容できない感覚だ。
 どうやら別のツイートでTシャツを着替えるだけ、と言っているようだが、タイムラインを見る限り、彼はバイク好きのようだが、バイクに乗っている人お断り、と社会から実質的に排除された場合に、彼はバイク趣味を簡単に諦められるだろうか。

 車椅子お断りの件についても、このような差別的なツイートを平気でする人なので、さもありなんという感しかない。自分の身にリスクが降りかかって初めてその愚かさに気づくんだろう。


 6/8の投稿で取り上げたバレーボールセルビア代表チームのつり目ジェスチャーのように、差別や蔑視を行う人の多くは、差別の意図はなかった、蔑視の意図はない、と言う。だけどセルビア代表がそのジェスチャーで指摘を受けるのはそれが初めてではなく、2017年にも同様の指摘を受けている。つまり認識を改める気なんてないのだ。そんな人達は決して少なくない。
 差別を行った者は、そのほとんどが意図はなかったという論法で言い逃れようとする。それはいじめも一緒で、場合によっては加害者側のその種の主張を根拠に、教員・学校・教委がいじめはなかったと決めつけたりもする。そうやって実質的な排除、消極的な排除が正当化されてしまう。そうやって正当化しようとする人が決して少なくない。


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