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制服は設けても着用義務は設けないで

 数日前に久しぶりに学校に行くことがあったのだが、その学校はバレエシューズタイプや三角前ゴムタイプの所謂上履きではなく、スリッパというか寧ろサンダルと言った方が適切なタイプの上履きだった。

 子供の頃、上履きの踵をつぶして履くな、と言われたものだが、教師は踵をつぶして履いてはいけない理由として、地震や火災などが発生して避難する際に脱げてしまって転んだりすると、廊下や階段で将棋倒しになりかねない、のようなことを言っていた記憶がある。だが、それならば学校側が上履きにスリッパやサンダルを指定するのは道理が通らない。そしてよく考えたら、中学校や高校の教員には、サンダルを上履きにしていた者が確実にいた。教員、というか大人の言うことはいい加減なものだ。
 そもそも、日本の学校が制服などの着用義務を設けている理由には、「身だしなみを学ぶ」という側面もあるんだろうが、制服にあの白い上履きとか学校によってはサンダルとか、どう見ても身だしなみ的によろしくない、と、久しぶりに学生を見て思った。学生服は冠婚葬祭や式典などでも着用する正装だが、正装の足元があの白い上履きとかサンダルなんてどう考えてもナシでしょ?としか思えない。不似合いだし不格好だ。つまり、制服は身だしなみを学ぶ為なんて話にはあまり説得力ない。
 このようなことを書くと、正装でも家の中などなら足元は靴下だろうし、それは拡大解釈だ、という人もいそうだが、ならば年がら年中正装で過ごす人なんていないのだし、そもそも日常的な着用義務自体に説得力がなくなる。

 学校における身だしなみ云々という話で、かなり前から言われているのが、中学校や高校では化粧するなオシャレとかするなと散々押さえつけるのに、社会に出た途端に、その場面にあった服装や化粧をするのが最低限のルールとか急に手のひら返される、という話である。化粧は本当に典型的なことだが、制服だって同じで、学校では、常に制服を着ておけ、自分で勝手に判断するな、と言っておいて、社会に出たら途端に場面にあった服装をしろ、なんて言われても、その判断力は養われておらず急にできるはずがない。
 そんなことから考えると、制服は教員や親などの大人が子どもに対して、管理のしやすさを重視して押し付けている側面がかなり強い。勿論制服に憧れを持つ子もいるんだろうから、撤廃・廃止せよとは言わないが、着用義務を設けるのは、教育上の弊害の方が多い、と自分には思える。


 制服を性別に関係なく選べるように、という話に関する記事が、ここ最近また目に付いた。

「都立校の制服、性別関係なくして」トランスジェンダーの大学生ら署名1万1500筆余を提出:東京新聞 TOKYO Web

スカートかスラックス、ネクタイかリボン 男女とも選べる中学制服 南足柄市が23年度から:東京新聞 TOKYO Web

 同性愛が世界的に認知され始め、日本でも配慮を求める声が高まっている。日本はG7で唯一未だに同性婚制度を設けていないが、それでも性の多様化に対する社会的な認識は徐々に変わり始めている。それに関する動きの中で、生物学的な性で着用する制服を強制するな、つまり生物学上の女性がスラックスを履いても、男性がスカートを履いてもよい、と改めるべきだ、という動きがある。ちなみに、女性がスラックスの制服を着用してもよいように改めろ、という声の背景には、女生徒が公共交通機関などで痴漢されやすいということもあって、それでスカートではなくパンツを履きたいという要望もあるようだ。
 制服のジェンダーレスについては、企業では既に取り組んでいるところもある。たとえばJR東日本は、2019年に制服を男女とも同じデザインに統一し、女性用のスカートやリボンを廃止した。

 紹介した東京新聞の記事は、1つめは、今春都立中高一貫校を卒業したトランスジェンダーの大学生らが、制服を性別に関係なく選べるようにしてほしい、という署名1万1500筆を教育委員会に提出したという内容で、2つめは、神奈川県南足柄市で、性別にかかわらずスカートやスラックスを選べる制服が2023年度から実際に採用される、という内容である。


 この、制服を性別に関係なく選べるように、という話についての自分の考えは、2019年1/16の投稿で既に書いたが、制服を性別に関係なく選べるように、というのは決して問題解消のゴールではなく、あくまでもその第1歩に過ぎないのに、そう言う人は今も殆どいないし、その第1歩さえ話がそれほど進んでいない。なのでもう一度同じことを書いておく。
 必要なのは、制服を性別に関係なく選べるようにすることではなく、

 制服は設けるが、着用義務は設けない

ことだ。なぜそう言えるのかと言えば、性の多様性への配慮と言うのなら、制服を性別に関係なく選べるようにしても、男性服か女性服のどちらかを選ばなければならず、カミングアウトしたくはないが、生物学上の性による制服を着るのはストレスになるという人や、性自任がまだハッキリとしていない人など、所謂LGBT以外、クエスチョニング(Questioning)、間性(Intersex)、アセクシャル(Asexual)などへの配慮として充分でないからだ。特性自認が女性である生物学上の男性、特に10代が、人目を気にせずにスカートを履くハードルはかなり高い。そのような人には生物学上の性別にかかわらず制服を選べるようにしても意味がない。制服ではない中性的な服装をできるようにすること、つまり制服の着用強制を止めることが最大の配慮だ。

 2020年10月の記事だが、東京新聞がこんな記事を掲載している。

<くらしの中から考える>学校の制服:東京新聞 TOKYO Web

 この記事で挙げられている学校制服の良い点の殆どは、着る者の個人的な理由によるもので、着用を強制する理由にはならない。ごく少数、着用を強制することで管理しやすいという大人の都合によるものも含まれている。制服でどこの学校の生徒か一目で分かることには管理する側にはメリットがあるかもしれないが、因縁をつけられたりレッテル貼りをされたり、生徒にとって不都合も多い。制服の着用を強制して帰属意識や仲間意識を高めるなんてのはファシズム的ですらある。
 つまり、着る側にとって着用を強制されることのメリットはどこにもない。制服の着用強制に賛成すことは、同性婚制度を否定することや、選択的夫婦別姓に反対することによく似ている。


 制服を性別に関係なく選べるように、という話は出てきても、制服は設けるが着用義務は設けないように、という話が全然出てこないというところに、日本では多様性に関する意識がまだまだ低いことを痛感する。



 トップ画像には、イラストストック「時短だ」 – 時短に役立つ素材サイト の素材を使用した。

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