スキップしてメイン コンテンツに移動
 

ポピュリズムの二番煎じ

 10/31に投開票が行われた第49回衆院選にて、与党自公が不祥事塗れだったにもかかわらず、野党第1党の立憲民主党は議席を減らした。自民も5議席減だったが、立憲はそれを上回る13議席を減らした。その責任をとって、前回の2017衆院選で同党を立ち上げた枝野が辞任を表明し、11/30に代表選が行われた。

立民新代表に泉氏 党役員半数、女性を登用―共産との合意「存在せず」:時事ドットコム

 立憲民主党代表選に泉が立候補を表明した時点から、泉は代表に相応しくない、という主張が一定程度あった。その理由は泉が2017年の立憲民主党立ち上げから参加していたのではなく、民進党が選挙直前に分裂した2017年衆院選では、小池百合子が立ち上げた希望の党から出馬し、希望では国対委員長を務めた。希望が国民民主党に衣替えした後も同党で国対委員長、政調会長を務めた。泉が立憲民主党に移ってきたのは、国民民主党の大部分が合流した2020年のことだ。
 泉に対する否定的な主張の大半は、彼が当初希望に参加したことへの不信感、また維新との協力を否定しない姿勢などがその理由だった。

 代表選が終了し、泉が新代表になった直後から「泉ではダメだ」という言説が飛び交っていたが、流石に諦めるのが早くないか?と感じた。自分も、泉/逢坂/西村/小川の4人のうち、泉が最良の選択だったとは思わないが、しかしそれでも「諦めたらそこで試合終了」だ。泉・立憲を見限るにしても、もう少し何するかを見てからでもいいんじゃないか? 絶望は何も生まない、と思えた。


 しかし一方で、泉が立憲民主党代表になったことに不安が全くないわけではない。いや寧ろ不安の方が大きいかもしれない。だから「泉ではダメだ」と言いたくなる人の気持ちもよく分かる。

などでも書いたが、議会第一党トップが行政のトップである首相・内閣総理大臣になる為、与党は行政と一体化しがちだ。だから、行政・内閣を監視/批判することの主体は必然的に野党になる。なので野党による政府や与党批判が多く目に付くのはごく自然なことでしかない。しかし泉は、維新やそれに迎合した一部メディアによる「野党(立憲)は批判ばかり/反対ばかり」「野党合同ヒアリングは官僚をつるし上げる場になっている」という揶揄につられ、「批判ばかりで追及一辺倒だと、国民の課題を扱っていないと思われかねない。野党合同ヒアリングを見直し、政策発信を強化する」と代表選でアピールしていた。
 これは、これまでの立憲民主党の姿勢と言うよりも、明らかに国民民主的な姿勢だ。言い方を変えれば維新的でもある。このような姿勢の泉が代表選に立候補し、立憲民主党の議員や党員らがそれを代表に選んだのだから、これまで同党を支持してきた層から一定の拒否反応が出てくるのは当然だろう。


 その泉が昨日こんなツイートをしていた。

このツイートは東スポの記事「〝超党派バースデー〟あるか? 立民・泉代表が同じ誕生日の岸田首相、志位委員長に呼びかけ | 東スポのニュースに関するニュースを掲載」が前提になっている。
 自分の目にはなんとも呑気なものだ、としか映らなかった。恐らく泉は親しみやすさをアピールしようと、冗談でそんなことを言ったつもりなんだろう。しかし自分の目にはふざけているようにしか見えなかった。やりたければ勝手にやればいい、そんなことよりももっとツイートしてアピールするべきことがあるだろう、としか思えなかった。

 泉 健太の姿勢・発言と、彼を党首に選んだ立憲の政治家らを見ていると、結局立憲民主党も、国民民主と、いや極端に言えば維新や自民公明とも、程度の差はあれどポピュリズムに傾いていることには違いないのでは?という気がしてくる。

 このままでは、来夏の参院選で更に状況は悪くなりそうだ。なぜなら泉や立憲は、ポピュリズム的な戦い方では明らかに維新や自民に劣る。それ以前にそもそも、実態よりもイメージ優先、親しみやすさ・やってる感ばかりを重視するポピュリズム的手法で自公維に優っても仕方がないし、そんなやり方は社会状況の悪化を招くだけで、だからポピュリズム的手法の選択は全く無価値どころか寧ろ有害だ。
 且つポピュリズム的手法では、少なくない既存の立憲民主党の支持者が離れるので失敗は必至だろう。ポピュリズム的手法で新規支持者が増えても、よくて既存支持者減と相殺になるだろうし、ポピュリズム的手法では自公維に劣るのだから、その手法を支持する人達はすでに自公維の顧客になっているだろうから、新規が増える幅よりも既存支持者減が上回る恐れも高い。

 そもそも合理性のない「野党(立憲)は批判ばかり/反対ばかり」「野党合同ヒアリングは官僚をつるし上げる場になっている」という揶揄を真に受けて、それに乗せられているようでは前途多難だ。そんな話を真に受けて、「批判ばかりで追及一辺倒だと、国民の課題を扱っていないと思われかねない。野党合同ヒアリングを見直し、政策発信を強化する」なんて言っているようでは民進党の二の舞になることが目に見えている。そんなことを言う泉は、民進党を分裂させた前原の二の舞になってしまうだろう、と強く危惧する。


 立憲民主党と泉には、さっさと正気を取り戻して欲しい。来夏の参院選はもう眼前に迫っている。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。