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パン屋和菓子屋問題の再考


 5/6のテレビ朝日・池上彰のニュースそうだったのか!!は今年の1-4月の主要ニュースを振り返るという内容だった。その中で道徳教科書検定に関する問題も取り上げられていた。番組では、教科書内でパン屋という設定が和菓子屋に変更された経緯について、教科書全体で「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつという要素が不十分な為、文科省が教科書会社に改善を促し、教科書会社が自主的にこの変更を行ったと紹介していた。更に池上氏が補足として「教科書会社は、一度作ったものを大きく変更すると文字数が変わり、ページ数の増減など大きな影響が出る為、簡単に変更できることで済まそうとしたのではないか」と説明した。そしてこの変更とは別に、道徳が教科化し成績がつけられるようになることについては「自ら道徳について考えるのではなく、先生の道徳観に迎合しようとする子供たちの姿勢が変に強まる」恐れを指摘し、ある程度の懸念を示していた。この台本が池上氏の意向なのか、番組制作側の意向なのか分からないが、世の中に広がっている”文部省がパン屋を和菓子屋に変更させた”という認識の不正確さを指摘するという意味では適切だと思える。確かに3/26に自分が書いた記事を読み返してみても、自分にはその意図はなかったが、文科省が変更を指示したかのように読める記述がある。ただ、自分はそれを踏まえたとしても検定を行った文科省の判断に問題があると考える


 前述の通り番組では”パン屋を和菓子屋に変更した主体は文科省ではなく教科書会社”と説明した。番組を見た印象は暗に「だから文科省には問題がない」と言っているようにも見えたが、実際にはそのような表現はなかった。この件について文科省に問題はないとも、教科書会社に問題がないとも言っていない。誤解がないように付け加えれば、文科省に問題があるとも、教科書会社に問題があるとも言っていない。出来るだけ良し悪しの判断は排除し、判断は視聴者に委ねると番組がしているようにも思えた。

 この道徳教科書の検定に関する問題の前提には、そもそも道徳を成績を付けるような教科にすることが妥当なのか、教科書検定制度は国家権力による教育への介入を必要以上に強める恐れがあるのではないかなどの議論がある。しかし全てをの要素から考えると焦点が曖昧になるので、今回は道徳教科化は一応議論を経て承認済み、教科書検定についてもこれまで行われてきた前例と、深刻な問題に繋がった例が確実にあるとは言えないということを考慮して無視する。

 では何故それでも”パン屋が和菓子屋に変更された”ことについて、主体的に変更した教科書会社だけでなく文科省にも問題があると思うのかと言えば、まず文科省が教科書全体で「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という要素が不十分とした見解を示し、それに伴い教科書会社がパン屋という設定を和菓子屋に変更したことによって、その要素が満たされたと判断したからだ。もしかしたら教科書内には他の変更点も複数あり、その中でパン屋から和菓子屋への変更が象徴的にクローズアップされている恐れもあるが、和菓子屋への変更も足りなかった要素を満たす構成要件の1つであることは間違いない。ということは文科省もパン屋は自国の文化生活に関する要素が薄く、和菓子屋の方がそれが強いと認識しているということだ。変更によって教科書が検定可となったのだからそれは事実だろう。

 本当にパン屋より和菓子屋のほうが自国文化に親しみを感じる上で優れているのだろうか。パン屋が製造販売しているパンは、確実に欧米由来のもので日本特有の文化ではない。しかしカレーパンやメロンパン、あんぱんなどは確実に我が国で独自に生まれたパンで、それらは日本特有の文化と言える。一方で和菓子だが、和菓子の代表格・饅頭について考えれば、もとは中国由来の文化で日本特有の文化とは言い難い。だが、日本に入ってきた後に日本で独自の進化をとげたことも事実で、日本スタイルの饅頭は確実に日本特有と言えるだろう。これは饅頭だけでなく多くの和菓子で同じことが言えるだろう。和菓子という”和”のつく名称からなんとなく日本特有に感じられ、パンはカタカナであることから舶来文化的な印象を抱きがちだが、よく考えれば両者の差は文化が輸入されて日本で親しまれた時間の長短が違うだけで、現時点では共に日本特有の商品が生まれているという点では大差ない。ならばどちらでも「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点では大差ないはずだ。

 にも関わらず文科省は教科書会社が行ったこの変更で検定の可・不可の判断を変えた。厳密にはこの変更だけが検定の理由ではなかったかもしれないが、それでも文科省は教科書会社のこの変更について「問題点はそこではない」とか「そんな安易な変更では問題は解決されない」と指摘する必要があったのではないだろうか。そうしなかったということは、文科省もパン屋と和菓子屋の間に「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」ことについて優劣があると考えているということを示している。それはその判断を見る視点によっては”パン屋には日本を愛する気持ちが薄い”としているようにも見えるし、輸入されてから歴史が長い文化のほうが価値が高く、近代以後輸入されたものの価値が低いという偏見を持っているようにも見える。だからこの件について主体的に変更したのが教科書会社だったとしても、文科省にも問題の責任の一端がある。個人的にはむしろ変更させた、今年の流行語候補で表現すれば、教科書会社にその意向を忖度させた文科省のほうがより責任が重いと考える。変更を主体的にしたのは教科書会社であっても、パン屋から和菓子屋への変更を促し、良しとして肯定したのは検定を行った文科省であり、そもそも教科書検定を管理管轄している文科省に、この件で問題がないというのもおかしな話である。

 こういうことが懸念されていたからこそ、最初に無視した道徳の教科化、教科書検定について問題視する声があるのだと思う。個人的には文科省、というか文科省を介して政府に都合の良い道徳観を、教育という手段で国民へ子供の頃から浸透させようとしているように思えてならない。ある意味では不適切な思想教育を行おうとしているようにも見える。当然のように政府や支持者たちはそんなことはないと言うだろうが、どんなにひどい独裁者でも最初から強権的な態度を示すことはない。必ず自分に有利な制度についての有益性・正当性をアピールする。独裁者になるヒトラーを中心としたNSDAP・所謂ナチス党だって合法的に民主的な経緯を経て権力の座についている。当然のように自分たちの正当性を主張してだ。この道徳教科書の件が直ちに強権的な国家体制に繋がるとは言えないが、そうならないように私たちは現在自分たちの元にある権利をしっかりと主張し、権力の動向から目を離さないようにしなければならない

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