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eスポーツの盛り上がりとその反応に思う事


 近年、盛り上がりを見せるeスポーツ。簡単に言えばビデオゲーム競技だ。今朝のNHK・週刊ニュース深読みではeスポーツについて取り上げ、競技人口が世界中で1億人を超えている事(野球は3500万人と言われているそうだ)、東京オリンピックの次のパリ大会で競技種目化が検討されていること、日本国内でのeスポーツに対する認識は他国に比べてやや遅れている傾向にあることなどを紹介していた。番組で紹介されていたように、日本国内での認識はまだまだ低いことは事実だが、それでもテレビで取り上げられる機会も確実に増えているし、専門の番組も既に存在している。また、世界的に活躍する日本人プロ選手が既に存在していることも事実だし、eスポーツ選手を養成する専門学校も既に開校している。

 
 週刊ニュース深読みでは、放送中に寄せられた視聴者の反応を紹介するのだが、eスポーツに対してネガティブな意見も多かった。特に多かったのは「ビデオゲームはスポーツではない」という声だ。確かに、日本人にとってスポーツという概念は=運動という認識が一般的で、ビデオゲームがスポーツであるということに違和感を感じる人が多いことは驚くべきことではない。しかし世界的には、スポーツ=運動競技ではなく、スポーツ=(単に)競技、という認識もある。現に戦前のオリンピック種目にはチェスなどの所謂マインド(頭脳的)スポーツがあった時期もある。
 また、パラリンピックなど障害者スポーツも、競技や競技者によっては、一般的な運動とは少し違った傾向にあると言えそうだ。eスポーツならば、勿論視覚障害や聴覚障害など、場合によっては完全に平等な状況にはならないかもしれないが、オリパラのように健常者と障害者を区別する必要性はかなり低くなりそうだ。

 個人的に興味深かったのは、eスポーツについて否定的な主張の多くが、運動系スポーツを必要以上に賛美する傾向が強かったことだ。例えば「ビデオゲームで競う事が何の役に立つのか」とか「ビデオゲームへの依存の問題もあるので、(競技として推進することには)違和感を感じる」などのような主張がそれに該当するだろう。
 確かにビデオゲームで競うことには直接的に実生活上で役に立つ要素はない。ないは言い過ぎかもしれないが、目立って役立つ要素があるとは言い難いだろう。しかしそれは、例えば野球やサッカーも同様ではないだろうか。棒で球を上手く打ち返せても現代の実生活ではあまり役に立たないし、球を早く投げたり、狙ったところに投げられてもあまり役には立たない。サッカーも同様で、ボールを上手く蹴る事が出来ても実生活で活用できる場面はとても少ない。このような事を言うと、「運動は体を鍛えられるし、戦略を考えたり、駆け引きを覚えることは実生活にも役立つ」と反論されそうだが、それはビデオゲームにも言えることだ。体全体は鍛えられないかもしれないが、指先の器用さの修練には、サッカーや野球より確実に役立つだろうし、指先の器用さが役立つ職業は確実に存在している。また、対戦ゲームにもサッカーや野球と同様に戦略や駆け引きの要素はある。単にビデオゲームへの理解度が足りないことが、そのような思考の背景にあるのだろう。
 また、依存性云々という話も同様だ。確かにビデオゲームは繰り返しプレーしたいという欲求を掻き立てるようにデザインされている。実生活に支障をきたす程のめりこんでしまう人がいるのは事実で、勿論「依存性など全くない」などとは自分も思っていない。しかし同じことは運動系スポーツにも言える。多くの愛好者を集めるには、試合が盛り上がるようなルールが必要で、時には状況によって改定されることもあり、繰り返しプレーしたいという欲求、繰り返し応援したい・観戦したいという欲求を掻き立てる。また、プロを目指す本人・子どもにプロを目指すことを促す親が、一般的な社会生活の決して少なくない部分を犠牲にし、競技の為に費やすことは珍しいことではない。また、そうやってプロ選手になった者、オリンピックレベルの競技者になった者が、その分野以外での経験が乏しく、問題行動を起こす事件も確実にある。このような状況は”運動系競技への依存”によって起きるものではないだろうか。要するに、ビデオゲームについてだけ依存性を懸念するのは、フェアな考え方とは言い難い
 
 番組内でも指摘されていたが、eスポーツに対して否定的・ネガティブな認識を持つ者が少なくない理由は、理解していないものへの漠然とした不安感、自分が子供の頃、親世代から受けた刷り込みなどがあるのかもしれない。テレビもマンガも映画も、ジャズやロックなどの比較的新しい音楽も、ビデオゲームと同様に保守的な大人達から「教育上良くない・好ましくない」と言われていた時期があったが、今では確実に文化の一つとしての地位を築いている。当然のようにジャズやロックの楽曲が教科書に掲載されているし、マンガや映画も文芸と並ぶような表現手法として、時には文芸以上に素晴らしい表現手法と認識されることも今では全く珍しくない。
 eスポーツには様々なジャンルがある。自分はモータースポーツが好きなので、eスポーツでもそのジャンルに興味がある。WRC・世界ラリー選手権ではここ数年、eWRCというWRCを再現したゲームの大会を実際のWRCラウンドに合わせて開催し、毎年シリーズチャンピオンを決め、優勝者にはWRCで実際に走っているレースカーのベースになっている市販車を賞品として提供するなど、eスポーツに力を入れている。また、世界で最も有名なレーシングゲームの一つ、日本製のゲーム・グランツーリスモシリーズは、これまでも日産と提携しゲームを用いたプロドライバー発掘プロジェクトを行い、実際にそこから誕生したドライバーが、世界レベルのシリーズに参加するに至っている。また、最新作では世界の自動車競技を統括するFIAと提携し、競技としての確立を目指しているようだ。そのFIAもF1のeスポーツ版の開催を模索している。要するに世界的に見ても、既にゲーム=大して価値のない子供の遊び、なんて思考は、既に時代遅れの代物になりつつある。

 マンガ文化とビデオゲームを比較して考えてみたい。マンガもビデオゲームも日本発祥の文化ではないが、どちらも共に日本で流行り発展し、世界的に日本はトップレベルと言っても間違いない状況にある。
 マンガは戦後、子供向けの読み物として発展したが、年月を経て当時からの読み手の年齢が上がり、今では大人向けの作品の方が多いくらいの状況だ。日本で大人向け作品が登場し始めたのは70年代の劇画ブームあたりからだろう。アメリカも日本と同様世界的に人気のあるマンガを作っている。DCコミックやマーベルコミックなど、作家主体ではなく作品・出版社主体のマンガ文化がアメリカにはあり、日本と異なる進化を遂げている。だが、アメリカではマンガ=子供向けという認識が根強かった為、日本のマンガの方が確実に先に発展を遂げた。現在はアメリカのマンガも子供向けとは言い難い状況かもしれないが、アメリカでマンガ=子供向けという認識が薄くなった理由の一つには、子供向けマンガだけでなく、日本産の大人向けのマンガも世界的に人気を博したことがあるだろう。
 また、日本のマンガはアニメ産業にも発展し、日本はマンガ・アニメでは確実に世界のトップレベルにある。日本のマンガ・アニメがこれだけ発展するきっかけを作ったのは、間違いなく手塚治虫だが、彼はディズニーに強い憧れを持っていたそうだ。ディズニーは勿論今でもアメリカだけでなく、世界的にアニメ界ではトップランナーだが、作品の多様性という意味では確実にアメリカよりも日本のマンガ・アニメの方が上だ。そうなった理由は、マンガ=子供向けという認識を打ち破った時期が日本の方が早かったからだと、自分は考えている。
 ビデオゲームも日本発祥ではなく、70年代にアメリカなど海外で流行したものを取り入れて、主に日本人が発展させた文化だ。日本のビデオゲームは80年代から2000年代初頭にかけて世界を席巻していた。しかしマンガとは異なり、その後徐々にその存在感を下げているように感じる。日本が得意とするゲームセンター用のゲームや家庭用ゲーム専用機から、パソコンやスマートフォンへプラットフォームが移行しているなどの状況もその理由だろうが、今朝の週刊ニュース先読みを見た限りでは、未だにゲーム=子供向けの遊びという考えから脱却できない者が日本人に多いからなのかもしれない。ファミコンブーム世代が30-40代になっていることや、スマートフォンでゲームを楽しむ大人も少なくないことなどを考えると、確実に日本でも過去に比べてそような認識は薄まっているのだろうが、他国と比べるとまだまだゲーム=教育上好ましくない単なる遊び、のような認識が根強いのだろうと感じられた。この状況を打破できなければ、アメリカ産のマンガが日本産に後れをとったように、日本のビデオゲームも同じような経路を辿りかねないかもしれないと危惧する。
 とは言っても、相変わらずプレイステーションやニンテンドースイッチなどの家庭用ゲーム機や、ゲームセンター向けのゲーム機では日本はトップレベルだし、ソフトでは海外勢に大分押されてはいるものの、それでも世界的に各ジャンルのスタンダードなゲームとして名を連ねるタイトルは少なくない。
 
 eスポーツはスポーツではないという人に聞いてみたい。「体を動かすことだけが本当にスポーツなのだろうか」と。モータースポーツは現在では確実にスポーツとして認識されている。長時間車やバイクを走らせるには、集中力を維持する為、夏はかなり暑くなる自動車内に環境に耐える為には体力が確実に必要だし、自動車も同様だが、バイクは特に操作するのに身体的能力をつける必要がある。そういう意味では運動系競技かもしれないが、突出した体力の必要性は、身体のみで争う競技に比べれば低いとも言えそうだ。そんな意味で言えば、体を動かすことだけがスポーツの重要性とは言い難いと言えそうだ。
 eスポーツは競技を始めるまでのハードルの低さもその魅力だと自分は感じる。運動系競技ほどの体力は必要ないので、参加できる年齢層や性別での優位性にはそれほど差がない。またプレーするのにかかるコストを抑えることも、運動系スポーツに対して比較的容易だ。勿論最低限の機器を揃える必要性はあるものの、それが数千万単位に膨れ上がるケースなどは想像し難い。種目にもよるが、運動系スポーツは練習する為に必要な施設利用費・維持費などを含めると、上達するには相応の費用が必要になる競技も多い。モータースポーツ系のeスポーツなどは他のジャンルに比べると用意する機器も多く、数十万単位になることもありそうだが、それでも実際の自動車やバイクレースよりは遥かに必要機材は少なくて済むし、ガソリンやタイヤなどが練習すればするほどかさむということもなく、経済的理由でプレー継続を断念せざるを得ない状況が比較的少ないと言えそうだ。

 依存症などネガティブな面にばかり注目する人が少なくないようだが、老人の痴呆防止など、頭を働かせることや指先を頻繁に動かす必要があることなどによって、脳を活性化することに有効という話もある。要するに、結局ここでも大事なことはバランス感覚で、勿論生活に支障をきたすほどのめり込むことは好ましくないが、そんなことはビデオゲームに限った話ではなく、仕事でも趣味でも何事にも当てはまる話ではないだろうか。

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