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南京事件II に感じる公的な記録が重要な理由


 録画してあった、5/13日放送の日本テレビ「NNNドキュメント 南京事件II」を昨晩ようやく見た。放送直後の月曜時点から各所で反応があり、どんな内容なのかと割合期待感を持って臨んだが、2015年に放送された「NNNドキュメント シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言」を踏襲した内容で目新しさは殆どなかった。それもそのはずで今回の放送は、2015年の放送で番組は南京事件について調査して実態に迫ったにもかかわらず、相変わらず「南京虐殺はでっち上げ」と一部で所謂歴史修正主義的な主張が行われていることに対しての回答、という趣旨だったのだから目新しさがある筈もない。5/20にも再放送があるらしく、これから見る人にとってはネタバレになってしまうかもしれないが、


 未だに「南京虐殺は無かった」と言っている人が拠り所にしているのは、

 捕虜を一方的に銃殺した部隊の責任者が、当時現場にいなかったにもかかわらず、戦後、捕虜が暴動を起こしたことによる自衛行為だったと、恐らく責任逃れの為に言い出したこと

であるというのが番組が出した結論だった。詳しくは番組を是非見て欲しい。

 南京事件に関する公的な記録は、その多くが終戦間際に戦争犯罪追及を避ける目的の証拠隠滅の為に焼却されている。その燃え残りの一部が1996年に市ヶ谷駐屯地の敷地内で発見され、現在市ヶ谷台史料として保存されていることも番組では紹介していたが、この部分を見ていて「南京虐殺など無かった、と主張する人は、終戦間際に公的記録が焼却されたのは証拠隠滅の為ではなく、不当な戦争犯罪の追及から国を守る為、と解釈するのだろう」と想像してしまった。これまでの歴史の中で”勝てば官軍負ければ賊軍”とされ、戦争に負けた側が過剰に弾圧される事案は数多く発生しており、その解釈が絶対的にアウトと言えるかどうか自分は確信するには至らないが、別の視点で考えれば、もし本当に不当な戦争犯罪の追及が実際になされたとしても、清廉潔白な公的な記録があればその不当性を証明できただろうし、自らその公的な記録を廃棄したということは結局、都合の悪い内容を隠そうとしたからだ、という恐れの方が強いと言えるだろう。このような観点で考えれば、公的な記録の不適切な廃棄・改ざん・隠滅・隠蔽はどんな理由があろうが確実に適切でないことには間違いない。どうにかそれを肯定しようとしても話に無理が出てくる、と考えながら番組を見ていた。

 番組では昨年・2017年12月に「南京戦の真実を追求する会」という団体が「南京攻略80年記念大講演会 外務省目覚めよ!南京事件はなかった」という集会を開き、自民・民進(当時)の議員数名が登壇し、その中には稲田元防衛大臣(現衆議院議員)もいたことを紹介していた。この件には昨夜のTBSラジオ・Session22の中で荻上チキさんも「番組を見た」として触れており、彼は実際にこの集会を現場で目の当たりにしたようで「南京事件はなかった、と書かれた垂れ幕の前で、前防衛大臣が演説することの意味を彼女はどう考えているのだろうか」という苦言を呈していた。”外務省目覚めよ!南京事件はなかった 稲田”でGoogle画像検索すると、稲田氏が実際に登壇している画像が複数ヒットする。
 南京事件について中国側が「被害者は30万人」としていることには、確かに自分も過大に被害者を見積もり過ぎている恐れを感じるものの、流石に現場にいた多くの日本兵の証言、手記などを勘案すれば「南京事件はなかった」とか”事実無根のでっち上げ”なんて判断は到底出来ない。南京事件はなかったと信じて疑わない人達にとっては、「南京事件が実際にあったとする手記を残したり、証言している元日本兵は全員、中共に洗脳された反日分子で証言の信憑性は疑わしい」ということなのかもしれないが、ならば同様に旧陸軍の当該部隊である歩兵第65連隊の両角元大佐の主張も「「南京事件は自衛発砲だった」と戦後しばらくして言い出したことは、責任逃れの為の証言でその信憑性は疑わしい」と言えるだろう。公的な記録は前述のように不当に廃棄されている為、当時事案に関わった人の証言・手記を頼って何があったのかを判断しなければならないが、現場にいなかった責任者の証言と、実際に現場にいた複数の兵士の証言・手記のどちらに信憑性があるのかを考えれば、後者を選択する方が自然だろう。
 それらの現場兵士の証言・手記が絶対的に正しいとはまでは言えないかもしれないが、それでも全てがでっち上げという事も出来ないのも事実ではないだろうか。複数の現場兵士の証言・手記は真っ赤な嘘というような判断が出来るのなら、 極端に言えば「織田信長など空想の存在で実際はいなかった。信長に関連する全ての記録・資料は、信長が存在していた方が都合のよい誰かが周到に用意したでっち上げで、事実無根の資料である」なんて話も通用してしまいそうだ。

 稲田氏が前述の集会に登壇したことについて、荻上さんは「南京事件はなかった、と書かれた垂れ幕の前で、前防衛大臣が演説することの意味を彼女はどう考えているのだろうか」という見解を示していたが、自分には、前段のような思考をすっ飛ばして「南京事件はなかった」という極端で到底容認し難い主張に共感できるような人だから、日報の中にあった戦闘という文言について「現地の政府軍と反政府勢力の争いを「戦闘行為」と認めれば憲法9条に抵触しかねないので、表現を「武力衝突」と言い換える」などと話の根拠と結論があべこべになったような話を平然と言ってしまうし、日報が隠蔽されるような事態が起きたのだろうと思える。端的に言えば、なぜこんな人が防衛大臣という要職に就けたのか、言い換えれば、こんな人を適任であるとして防衛大臣に任命した人の認識を強く疑う。
 今の防衛大臣・小野寺氏は確実に稲田氏よりはマシだろう。しかし彼もイラク派遣部隊の日報に戦闘という文言があったことについて「イラク復興支援特別措置法にいう戦闘行為には当たらない」という見解を示しているし、その日報も彼に大臣が変わってからも隠蔽されてきた。また、過去の話ではあるが2013年に、鳩山由紀夫元首相が中国要人と会談した際に尖閣諸島は日中間の係争地だとの認識を伝えたことについて「久しぶりに頭の中に「国賊」という言葉がよぎった」という表現を用いている。鳩山氏の言動に不快感を示すのは構わないが、国賊という言葉選びには強い違和感、稲田氏と似たような思考が彼の根底にもあるのではないか?という懸念を感じる。

 政府関係者、そして政府を選ぶ私たちも絶対に頭のどこかに置いておかなければならないのは、南京事件の評価にも必要だった公的な記録が不当に廃棄された結果、どんな主張が大腕を振って歩いているのか、ということだ。都合の悪い文書は廃棄・改ざん・隠滅・隠蔽しても問題ないという風潮は絶対に認めてはならないし、現在はそんな風潮が既に一部にあるようだから、絶対に正す必要がある。

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