スキップしてメイン コンテンツに移動
 

防犯が理由でも偏見は認められない。


 アメリカ・ジョージア州で、白人の子供たちをベビーシッターをしていた黒人の男性が警察に通報され、物議を醸しているそうだ。ハフポストの記事「白人の子供のベビーシッターをしていた黒人男性、通報される。全米で物議」によると、ベビーシッターとして2人の白人の子供の面倒を見ていた黒人男性が、スーパーマーケットの駐車場で白人女性から「子供たちは大丈夫なのか」「子供たちと話せるか」と聞かれたそうだ。男性が「それはできない(子供たちとは話せさせられない)」と断ると、女性は警察に通報したそうだ。更に男性らが駐車場を出ると後を追い、家に到着すると警察官もやってきてどういうことかと問いただされたそうだ。
 記事では、現在の状況に関して「物議を醸している」としか表現していない。要するに、賛否両論、議論が起こっているということだろう。賛、賛成は言い過ぎでも、このような通報や警察官の行動を容認する側の主張は、防犯の為には些細なことでも確認は欠かせず、この黒人男性にとっては不快な事だろうが、子どもが万が一の目に遭わないようにする為にはある程度仕方がないことなのではないか、のような見解に基づいているのだろうと推測する。


 例えば、この男性が子供を少しでも邪険に扱っていたとか、子供たちがあからさまにこの男性を嫌がっていたとか、怯えていたとか、そんな要素があるのなら「仕方ない」という話も理解は出来る。しかし、記事ではそのような話は一切ない。通報した女性の主張が記事には一切ないので、実際どうだったのかは定かでないが、そのような要素もなく「黒人男性が白人の子供と一緒にいたから」という理由だけで通報がされたのだとしたら、それは偏見・差別的な認識以外の何ものでもない。逆に「白人男性が黒人の子供と一緒にいた」のをその女性が見かけた時に、果たして通報するのだろうか。自分には、白人男性と黒人の子供が一緒にいる”だけ”では通報しなかったとしか思えない。

 この記事に「警察は通報に従って行動しただけで、悪いのは偏見に基づいて通報した女性であって、警察は悪いとは言えない」というコメントがある。そのように考えられなくもないし、記事にも掲載されている、家の前で警察官に職務質問を受けた様子を当該男性が撮影したビデオを見ると、決して警察官は高圧的な態度のようには見えないので、確かに最も不適切な判断を下したのは、通報した女性であることに間違いはないと感じる。しかし、例えば「白人男性が黒人の子供と一緒にいる、車に乗せた」と通報を警察が受けた場合と、「黒人男性が白人の子供と一緒にいる、車に乗せた」と通報を受けた場合の対応が全く同じかどうかがとても気になる。後者の場合は警察も先入観で犯罪の恐れを強く勘案し、前者の場合は通報者に「勘違いでは?」と確認するというようなことが絶対ないと言えるだろうか。勿論対応する警察官にもよるのだろうが、近年警察による黒人に対する不当な制圧や、黒人被疑者に必要以上の暴力を加えて死亡させるような事案が報じられているのを見ると、警察が全ての人に平等に対応しているとは言い難いように思う。

 先日ツイッターのタイムラインに、


というツイートが回ってきた。ツイートにはどこの局のどの番組かも書かれていないし、自分がこの番組を見たわけではないので、実際に警察官、若しくは警察組織として、「人と違う行動をしている人を見かけたら間違ってもいいので110番通報してほしい」という声明があったかどうかは定かでない。流石に警察が組織的にこんなことを大々的に表明するとは考えにくいが、8月に大阪・富田林署から逃走した事件について、1カ月以上も被疑者が逃げ続けていたこと、 4月に愛媛県今治市の松山刑務所大井造船作業場から脱走した受刑者が20日以上も見つからなかった事等を勘案すると、現場や、現場に近い警察官が、藁をもすがるような気持ちで、軽はずみにこのようなことを言うかもしれないとは思えた。「人とは違う行動をした」だけで、110番通報されてしまうような状況は確実に適切ではない。人と違うだけで通報され、警察官に職務質問を強要されるような目に遭うのは、自分はまっぴらごめんだ。「人と違う行動」というのは、要するにマス・大多数の行動規範から外れた人というような意味だろうし、また逆に言えば、一般的ではない感覚を持った人からすれば大多数が「人とは違う行動」をする人だろうし、そんなことでいちいち警察官に詰められるような事になるのは確実におかしい。

 「日本の警察は職務質問を強要なんてしないでしょ?」と思っている人がいるとしたら、その認識は大きな間違いだ。自分はこれまで何度も職質強要・持ち物検査の強要に遭っている。一番理不尽だと感じたのは、国道246号を23:00頃走っていた際にパトカーに停められた時だ。警察官が自分のクルマを停めた理由は「ナンバー灯が切れかかっていたから」だ。例えばナンバー灯が実際に不点灯だったならば整備不良の恐れもあるし、切符を切らなくとも注意して修繕を促す必要があるだろう。しかし「切れかかっている」と言っているように、実際に切れていないのにパトカーに停められるのが納得できるだろうか。自分には言い掛かりとしか思えなかった。
 しかも警察官は車内検査、要するに持ち物検査を要求してきた。ナンバー灯云々なんてのは停車させ持ち物検査をさせる為の口実だったとしか思えず、自分は検査を拒んだ。すると、お決まりの「やましいことがないなら、なんで車内検査を認めないの?」的な論法で食い下がってきた。そんな言い争いを見て通りかかった別のパトカーが集まったのか、自分と言い争っていたのとは別のもう一人の警官(警らは基本的に2人以上で行う)が応援を呼んだのかは分からないが、15分かそこら押問答を続けていると、自分のクルマの周りにはパトカー3台、警察官が6人集まって取り囲まれていた。
 この状況を傍から見たら、どうやったって自分が何か不味い事した犯罪者のように見えるだろう。自分が誰かのこのような状況を見てもそんな風に想像してしまいそうだ。もしこれが自宅の近所なら、見かけた近隣住民にあらぬ噂を立てらていたかもしれない。そう思うとゾッとする。要するに、警察官は安易な通報を呼びかけるべきではないと思うし、安易に職質を強要するべきでもないと思う。確かに防犯という意味では、些細なことも見逃さないという姿勢も必要なのだろうが、それだけをバランスを欠いて重視すると、偏見を助長しかねないという弊害が確実にあることを強く指摘したい。

 結論としては、偏見に基づいて警察に通報することは確実に不適切だし、警察官が「人とは違う行動をしている人を見かけたら110番を」なんてことを言うようであれば、それは警察が偏見を助長することにもなりかねないということだ。防犯・秩序の維持の陰で、その犠牲になるような人が出ることは到底仕方ないとは言えないし、そんなことにならないように「おかしいこと」にはおかしいと言い続ける必要があるだろう。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。