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肩書だけで尊敬を要求するような者は…


 5/3は憲法記念日だった。1947年に日本国憲法が施行されたことに因んでいる。因みに日本国憲法が公布されたのは前年・1946年11/3で、現在11/3は文化の日となっている。ただ、11/3は明治天皇の誕生日に由来する天長節/明治節を引き継いだ祝日という側面もある。
 その憲法記念日を目前の5/1に即位した新天皇は、即位に際した儀式の中で
 日本国憲法および皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました
 常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓います
と述べたそうだ(東京新聞「「国民を思い 憲法にのっとり 象徴としての責務果たす」 天皇陛下、初のお言葉 即位後朝見の儀」)。
 近代的な国家における憲法は概ね、人権と自由の保障と、その実現の為に必要となる(国家)権力の制限に関する規定・制約を定めたものであり、日本国憲法もその1つである。天皇や皇族は日本における最大の権威の1つであり、憲法に即した活動が求められるし、新天皇は改めてそれを確認・遵守する意思を示したことになる。
 しかし一方で日本最大の権力者である現首相は、憲法記念日に自分が遵守するべき憲法を、自ら進んで改定するという意欲を示した。両者の差は非常に興味深く、自分は現首相の姿勢に強い懸念を抱く。


 5/3は憲法記念日に因んでいくつかのイベントが催されたようだ。テレビ各局が取り上げたのは、

NHK

日本テレビ

TBS

フジ

テレビ朝日

テレビ東京


である。他にもいくつか既に削除された記事もあるようだが、5/5昼時点ではこれらの記事が掲載されている。つまり、テレビがニュースとして取り上げたのは、首相がビデオメッセージを寄せた、日本会議主催の第21回公開憲法フォーラムと、立民・国民・共産党の代表らが参加した、5・3憲法集会実行委員会主催の平和といのちと人権を!5.3憲法集会2019 ―許すな!安倍改憲発議―の2つだ。
 このようにまとめてみたのは、自分のツイッターのタイムラインに、護憲派と思われる人の「テレビは日本会議の集会とアベのビデオメッセージしか取り上げず、護憲派の集会を取り上げない」という旨のツイートが複数流れてきたからだ。結論を言えば、それは確実に嘘、柔らかく表現しても明らかなミスリードである。確かにテレビ各局が取り上げた分量を見れば、明らかに日本会議の集会と安倍氏のビデオメッセージの分量が多く、偏りは感じられる。しかし護憲派の集会や主張を一切取り上げていないということはない。最近メディア露出が著しい古谷 経衡さんの著書に「左翼も右翼もウソばかり」というのがあるが、まさにそうだなと再確認させられる。元TBSのジャーナリスト・下村 健一さんも

と言っているように、どんな話も鵜呑みにせず、一旦立ち止まって咀嚼しないと間違いを犯すことになりかねない。


 平和といのちと人権を!5.3憲法集会2019 ―許すな!安倍改憲発議―での、元NHKでジャーナリスト/社会学者の永田 浩三さんのスピーチが、産経新聞が記事にしたことで話題になった。これについて、保守派を称する中国出身の評論家・石平 太郎さんは、
とツイートしていた。

 流石は儒教の国に生まれた人だ、以外の評価が見当たらない。首相を○○君と呼ぶのは傲慢なのだそうだが、日本の国会では議員も大臣も首相も隔てなく○○君と呼ぶ。ということは、日本の国会は傲慢という事になりそうだし、議員や大臣や首相を○○君と呼ぶ議長や各委員会の委員長らは、「人間としての基本が何もできていない」ということになる。こんな揶揄しか出来ない程、他の部分への批判が出来なかったのだとしたら、石平さんが改憲を主張した場合の信憑性は著しく下がるとしか言えないし、そんな事で「日本の左翼は」なんて大雑把過ぎる括りで「人としての基本がなってない」なんて言えるということは、石平さん自体が「人としての基本がなってない」ことを自ら証明したとも言えそうだ。そもそも、首相は首相だから敬意を払わなければならないのではない。多くの人に敬意を払われる人物が首相になる場合が多いだけであって、首相は必ずしも尊敬に値する人物とは限らない。
 日本の社会一般では他人を呼び捨てにするのは失礼にあたるとされるが、「呼び捨てにする=人としての基本がなっていない」に当てはまらないケースというのも少なからずあり得る。しかも、石平さんが批判しているのは呼び捨てではなく君付けである。さんや君をつけて呼ぶということは、最低限の敬意を示していると言えるだろう。つまり石平さんは、首相に最大限の敬意を払わないのは人としての基本を欠いていると言っているにも等しく、そんなのは単なる価値観の押し付けで、厳しく言えば難癖でしかない。首相を尊敬するかどうかは国民一人一人の自由で、どんな敬称で呼ぶか、若しくは敬称を付けずに呼んでも、それも国民一人一人の自由だ。もし誰かが首相を「安倍」と呼び捨てにし、それを石平さんが「失礼だ」程度に指摘したのなら理解も出来るが、君付けで呼んだことをして「傲慢」「人としての基本がなってない」とするのは到底理解できない。傲慢で人としての基本がなってないのは永田さんでなく寧ろ石平さんだろう。


 天皇の譲位に際して、似たような呼び名に関する話が一部で盛り上がっている。BuzzFeed Japanもそれに触れ、「上皇さまを「平成天皇」と呼ばない理由」という記事を掲載している。元号+天皇で呼ぶのは死後に用いる諡(おくりな)であり、生前は、今の天皇という意味の「今上天皇」とか、名前+天皇で「明仁天皇/上皇」「徳人天皇」と呼ぶのが一般的という内容だ。この件に関して、一部に名前で呼ぶのも失礼だとする人がいるようで、それに対する違和感を表明する次のツイートが今朝タイムラインに流れてきた。

自分は昭和50年代生まれで、小学生当時に祖父に「明治天皇って言うなら今の天皇は昭和天皇?」と聞いたら、元号付けて呼ぶのは死んでからと教わった。「単に天皇じゃ紛らわしい」と言ったら、「裕仁天皇とか「今の」って意味で今上天皇と言う」とも言っていた。昭和天皇の生前に昭和天皇と言っているケースが全くなかったわけではないが、少なくとも自分の周辺には恒常的にそう呼ぶ人はいなかった。 ただ、祖父は兵隊として満州にいて、戦中もだったようだが敗戦によって散々な経験をしたらしく、基礎知識として前ツイ内容を教えてくれたようだが、昭和天皇を一切敬ってはなかった。寧ろ軽蔑すらしていたように思う。陛下なんて言っていたのは聞いた覚えがない。
 当時はまだ平成への代替わりが視野に入っていた時期ではなく、昭和天皇を誰かと明確に区別する必要もなく、概ね単に天皇と呼ばれており、今上天皇と呼ぶ場合も殆どなかったように思う。しかし単に天皇と呼ぶ場合も今上天皇と呼ぶ場合も、その場限りの口語なら特に問題はないし、書かれた日時が特定出来る新聞記事等なら後から見ても誰の事か分かるが、死後は次の天皇が「今上」になるわけで、その呼称が結局紛らわしい事に変わりはない。元号で呼ぶのに諡の性質がある事を考慮しても、明仁とか徳仁と呼ぶのの何が失礼か全く理解できない。そして様・陛下等どんな敬称で呼ぶか、敬称を付けるか否かもそれぞれの自由でしかないと考える。

 明治天皇の玄孫だという、竹田 恒泰さんはこんなツイートをしている。
×が何を意味しているのか不明瞭であるが、恐らく「さま」は不適切で「陛下」と呼ぶべきだと言いたいのだろう。
 彼が個人的にそう認識するのは彼の自由だが、他の似たようなツイ―トをしている者らと同様に、万が一陛下と呼ばないのは非国民のような認識を彼が持っているのだとしたら、実際にはそのような主張をする人達や彼こそが天皇や上皇を貶めていると言えそうだ。
 なぜなら、現在の天皇・皇族は、封建社会における支配者のような絶対的な権威ではなく、主権者である国民が認めることによって権威付けられた存在であるからだ。つまり、もし万が一天皇や上皇らが「天皇・皇族であることだけ」を理由に、国民に対して自分達への敬意を求めるような人物であるならば、一部の国民から日本の象徴として認めてもらえなくなるだろう。天皇は天皇だから尊敬されるべきなのではなく、尊敬に値する人物だから天皇たり得る存在であり、でなければ日本の象徴に相応しいとは言えない
 にもかかわらず、勝手に忖度して失礼云々などと呼び方を他者に強制しようというのは、天皇は天皇というだけで敬意を求めるような人物だと貶めている側面、つまり天皇の人間性を低く評価している側面があり、それこそ不敬な行為なのではないだろうか。


 つまり、首相にせよ、天皇・皇族にせよ、その肩書だけで尊敬を要求するような者はその立場に相応しくない。日本では主権者は国民一人一人であり、首相にせよ天皇・皇族にせよ、尊敬できる人物か否かを判断するのは国民一人一人の権利であり自由である
 あれは失礼にあたる、これは失礼にあたると、個人が思うのは全然構わないし、個人の見解を示す事も全く構わない。しかし他の人が別の考え方を持つことを否定しようというのは、つまり他者の権利を侵害する恐れのある主張をするのは、明らかに民主主義・自由主義に反する。そんな観点から考えれば、竹田さんのツイ―トは意図が不明瞭なのでギリギリセーフにも思えるが、石平さんのツイートは合理性を欠いた根拠で他人を貶しており、明確に不適切だと断言できる。

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