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人は好ましくないと思うことや、本当に辛かったことについては語りたがらない


 学生時代にアルバイトをしていた洋品店に、1ヶ月から2ヶ月に一度店を訪れる60歳くらいの客がいた。彼はパチンコ好きで、店に来る度にその話をしていた。彼が店に来た際にするのは、決まって「昨日は〇万勝った、先週は〇万勝った」という話だった。彼から負けたという話を聞いた記憶は殆どない。自分がバイトし始める何年も前から働いていたパートのおばさんが言うには、「あの人は昔から勝った話しかしない」とのことだった。当時は自分もパチンコをよくしていたので、バイト終わりに打ちに行くと彼を見かけることもあったが、彼は箱を積んでいないとバツが悪そうにするので、パチンコ屋で彼を見かけても、そんな時はこちらから話しかけることはあまりなかった。
 パチンコに限らずギャンブル好きというのは大概勝った話をしたがる。負けた話を積極的にする人は少ない。例えば仲がいい友達等なら、負けたことをアピールして食事をおごってもらおうとする奴などもいたし、自分も同じ様なことをしたことはあるが、誰でも大抵自分をよく見せようとするし、勝った話をした方が自分も楽しいということもあり、負けた話よりも勝った話をしがちである。
 つまり、自分にとって好ましくないこと、都合の悪いことには触れず、自分が好ましいと思っていること、都合のよいことを強調しようとする傾向が誰にでもある


 今日・8/15は終戦記念日と呼ばれている。最近は「終戦記念日ではなく敗戦記念日だ」なんて話をしばしば耳にするが、8/15は決して戦争が終わった日でも戦争に負けた日でもない。厳密に言えば、太平洋戦争が終わった日も、日本が戦争に負けたと正式に決まった日も、旧日本政府の重光 葵外務大臣が戦艦ミズーリ艦上で連合国に対する降伏文書・ポツダム宣言に調印した9/2だ。
 では8/15は何の日かと言うと、旧日本政府が、天皇陛下の言葉を伝える玉音放送という形式で、ポツダム宣言の受諾を国民に宣言した日だ。政府が天皇の言葉という形式で「戦争を止める・諦める」と宣言した日と捉えれば「終戦記念日」だろうし、無条件降伏・ポツダム宣言の受諾を宣言した日と捉えれば「敗戦記念日」と言えるかもしれない。しかし8/15は、あくまで政府が国民に終戦・敗戦を宣言した日であって、前述の通り、終戦・敗戦が確定した日では決してない


 8/15の呼び方が何であれ、祖父母世代が戦争経験者だった自分にとって、8/15は少なからず彼らの戦争体験を聞く、というか半ば強制的に聞かされる日でだった。自分に対して毎年のように戦争体験を語った人物は3人程いる。それは1人の祖父とその弟、そして前述の洋品店の社長だった
 2人の祖父から戦争体験を聞かされたのは概ね自分が小学生の頃で、洋品店の社長から聞かされたのは自分がバイトしていた学生時代の数年間だ。自分は年寄りから戦争の話を聞くのは嫌ではなかった。寧ろ興味深いと思っていた。しかし、バイト先の洋品店では、当たり前と言えば当たり前でもあるが、仕事を邪魔されるという理由からだろうか、他の従業員は8/15に社長を避ける傾向にあった。自分がバイトしていた間は毎年8/15の聞き役は自分だった。
 祖父とその弟は南方・マレーやフィリピン、洋品店の社長は満州で従軍していたようだった。そう言っていたように記憶している。3人とも戦争について「散々な思いをした」とは言うものの、水木 しげるさんの「総員玉砕せよ!」で描かれているような、生々しい話や壮絶な悲惨さを話す者はいなかった

 パチンコに負けた話をしない洋品店の常連客同様、彼らも自分達の悲惨な体験は、できれば話したくなかったのだろうし、また、戦争中とは言え、人には言えないような事を自分達がしていたから、自分達が置かれた悲惨な状況について言い難かったのかもしれない。今となっては、当時の生々しい現実を彼らがどんな理由で語らなかったのかは定かでないが、戦争の体験が余りに壮絶で語りたがらない当時者というのは決して珍しくはない。テレビや新聞などの戦争体験世代へのインタビュー企画などでも、しばしば「重い口を開いた」とか「初めて語った」なんて説明が加えられる。
 それは戦争に限った話ではなく何か凄惨な事件の当時者なども、決して事件について積極的に話したがるものではない。それは加害者だけでなく被害者もだ。つまりあまりにも辛い体験・思い出したくない体験を、人はあまり他人に話したがらないものだ。そのようなことは記憶の奥に封印しがちである。勿論その例に当てはまらない人もいる。


 「大東亜戦争は日本がアジア解放の為に行った戦争だ」とか、「特攻は無駄死にではない」という、どこか戦争を美化しているように見える主張をしばしば目にする。例えば国民民主党の玉木代表も、2019年の8/15に示した談話の中で、
 今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって命を落とされた方々の尊い犠牲と戦後の辛苦に耐え、復興の道を歩んでこられた先人のご努力の上に成り立っています
と述べたそうだ(産経新聞「終戦の日 国民民主党「戦争の惨禍、令和に語り継ぐ」」)。安倍首相も同様の見解をツイートしている。「尊い犠牲」なんてのは果たして妥当だろうか。多くの兵士は徴兵によって有無を言わさずに駆り出され無謀な作戦で命を落とした。疫病・餓死で命を落とす者も決して少なくなかった。また、愚鈍な旧日本政府の所為で、多くの市民が空襲や原爆の被害にさらされ犠牲になった。果たしてそれは「尊い犠牲」だろうか。単なる無駄死にではないのか
 日本の平和と繁栄は戦争なしではなかったことか。戦争で犠牲になった多数の戦没者がいなければ成り立たなかったのか。戦争などしなくとも、多数の不必要な犠牲などなくとも平和も繁栄も実現出来たはずだ。戦争によってどれだけの有能な人材が失われたか、どれだけの有能な人材を軍が・政府が・国が・統帥権があるのにその暴走を止めなかった天皇が死に至らしめたか。戦争をしなかった方が日本の平和が早期に実現できたのは言うまでもなく、繁栄だってもっと早く実現していただろう。
 「特攻を無駄死にというのは侮辱だ」と言う者がいる。彼らは「無駄な死ではなく尊い犠牲だ」と言いたいのだろうが、果たして特攻で死んでいった兵士たちは「特攻を無駄死になどと侮辱するな」と本当に思っているだろうか。彼らは死んでしまっているので、その認識を確認することはどうやってもできないが、もし自分が特攻で命を落とした兵隊だとしたら、「尊い犠牲と美化して欲しい」なんてこれっぽっちも思わないだろう。寧ろハッキリと無駄死と認識することで、自分達のような不必要な犠牲を今後一切出さない為の教訓にして欲しい、と考えるだろう。何故なら、それこそが自国の未来と自分の家族や子孫の為であると考えるからだ。

 様々な人がいるのは当然だが、戦争経験者の中には悲惨な・壮絶な体験を語りたがらない者も少なくないし、ストレスを抑止する為に戦争体験を美化して語る者もいる。人間が何かを語ったとしても、それは実際に起きたことの全てではない。語られない事も多い。寧ろ語られない事の方が多いかもしれない。人は好ましくないと思うことや、本当に辛かったことについては語りたがらないのだから。
 BuzzFeed Japanは、雑誌『暮しの手帖』が昨年から今夏にかけて、読者から募った戦争体験の手記を3冊の本にまとめたという記事「人々が寄せた2390通の戦争体験。この庶民の営みは、歴史書には記されない」を8/14に掲載した。記事では戦争に関する記憶の風化について触れているが、 記事を読んで自分はこう思った。
 記憶の風化というか、戦争に関する記憶・記録を改竄しようとする人達が一部におり、政治家の中にもそんな人がいる。人は愚かだから、記録を軽んじれば将来確実に同じ過ちを繰り返す。
 戦後70年以上経っても、日本政府は未だに不都合な書類は捨てるし、隠すし、書き換える。しかも最近ではそもそも記録しないようにまでなった。有権者は「そんな国に未来はない」ということに気付かないといけない。気付かなければ、日本は再び1930-40年代へと逆戻りすることになる。

 トップ画像は、Clker-Free-Vector-Imagesによる画像、tcenitelkrasotiによる画像を組み合わせて加工した。

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