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政府に異議を唱えると排除される国になった日本


 参院選中に安倍首相が札幌で応援演説を行った際に、安倍氏や政府に対して批判的な意思表示をした者が警察官によって囲まれ、その場から排除されるという事案が起きた(7/17の投稿)。その際もそれなりに、安倍氏や対応した警察などへの批判が起きたが、又しても同種の事案が発生した。
 8/25に投開票された埼玉県知事選の選挙戦最終日、柴山文科大臣が自民党などが推薦した候補の応援演説を行った際に、大学入試改革に異議を唱えるプラカードを掲げて、「柴山辞めろ」「民間試験撤廃」と叫んだ大学生を、警察官が取り囲み、連行し、その場から排除したそうだ。当該大学生は、連行される際にベルトを引っ張られて破損したとも主張している。


 朝日新聞「演説中に抗議受けた文科相「大声出す権利保障されない」」によれば、柴山氏は8/27の会見で、「(演説会場で)大声を出すことは権利として保障されているとは言えないのではないか」との見解を示したそうだ。ここでは「大声を出す」という表現になっているが、彼はツイッターでは「わめき散らす声」という表現を用いている。


基本的には「大声を出す」と「わめき散らす声」という表現が示す状態・状況はそう大きくは変わらない。しかし、その印象は大きく異なる。「わめき散らす」だと、不適切な行為であるというニュアンスが各段に強調される。
 自分はその場にいたわけではないし、実際どうだったのか定かでないが、「柴山ー!」とか「頑張れー!」と、わめき散らした人はいなかったのだろうか。もし居たのだとしたら、それらの人達も当該大学生同様に、警察官によって取り囲まれ、ベルトを掴まれて強引に連行され、その場から排除されたのだろうか。というか、当該演説に限らずそんなケースはしばしばあるだろうが、それで連行・排除されたという話は聞いたことがない。今後は演説の場でそのような発言をすれば、肯定的な内容か批判的な内容かにかかわらず、同様に排除されることになってしまうのだろうか。
 兎にも角にも、国の大臣という立場の人間が、たとえ自分や政府に批判的な発言をする人に対してでも、「わめき散らす」という表現を用いること自体が不適切だろう。柴山氏もそれを理解しているから、記者を前にした会見では「わめき散らす」ではなく「大声を出す」という、ネガティブな印象の薄い表現を用いたのだろう。
 柴山氏の主張は、「大声を出す権利はない」と言っているが、実質的には「批判的な声をあげることを許さない」と言っている点、自分に批判的な主張を「わめき散らす」と蔑んでいる点、この2点で適当とは言い難い

 更に彼は以下のツイートもしている。





 彼が引用したツイートの中でも示されているように、柴山氏は弁護士資格も有している人物だ。2つ目のツイートで彼が「13条」と言っているのは、
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
という日本国憲法13条のことだろう。一体彼がなぜこれを引き合いに出したのかすら不明瞭だが、彼は「選挙の応援演説中に「大声を出す」行為は公共の福祉に反するので、その権利は保障されない」と言いたいのかもしれない。しかし、前段でも指摘したように、大声を出すこと自体が公共の福祉に反するというのも強引だし、もし「がんばれ」や候補者名などを大声で叫ぶ行為を、大声を出すという点では同じ行為なのに排除しないのであれば、それは詭弁に過ぎない。
 最後のツイートの「大集団になるまで警察は黙って見ていろと?」は更に危険な論理だ。警察は、基本的には違法性が強く疑われない限り市民の行為を制限するべきではない。参院選中や今回のような連行・排除は、戦前の悪法「治安維持法」(Wikipedia)を強く連想させる

 
 7/9の投稿で、日本で表現の自由は維持されているか、について書き、その約1週間後に札幌での排除事案が発生した(7/17の投稿)。そしてそれからたった1ヶ月で同様の事案が再び発生し、しかも今回は文科大臣が「その事案に問題はない」という見解まで示している。しかもその大臣は弁護士資格を持つ人間だ。この事案は、如何に日本の表現の自由維持が危険な状況にあるかを再確認できる事案だった。

 因みに、7/7の投稿でも書いたように、現政権の成立以降、日本の報道の自由が低下しているという指摘があり、複数回改善を勧告されているが、現政権は頑なに「批判は当たらない」という根拠に乏しい主張を繰り返すだけだ。今年のNHK大河ドラマは、大河ドラマとしては異例の近代劇・いだてんだ。現在放送されているパートは1930年代前後が舞台になっており、戦前の日本の状況が描かれている。8/7の投稿でも取り上げたように、表現の自由/報道の自由が制限されていく様も描かれている。
 いだてんは、大河ドラマ史上最低を更新する勢いで視聴率が振るわないらしい。大河ドラマとして異例の近代劇であることや、ドラマ自体に、来年の東京オリンピックに向けた国威発揚的な側面があることなど、理由はいくつかあるだろうが、関東大震災の場面では、朝鮮出身者への偏見・差別に関する描写があったり、1930年代の徐々に自由が失われていく様が描かれていたりと、今だからこそ評価すべき表現も散りばめられているように思う。そのような部分に光が当たらない、日本の市民が興味を示さないことは残念でならない。

 日本人にはお人好しな国民性がある。基本的に性善説で考えるのも日本の国民性だと思う。しかし「色々あるが、それでもまだまだ日本はまともだろ?」ぐらいに思っていると足下をすくわれかねない。つまり、その国民性が裏目に出ることもある、と強く指摘しておきたい。
 これは何度も書いていることだが、ある日突然日本が太平洋戦争を始めるような状況になったわけでもないし、ある日突然ナチスがユダヤ人を迫害し始めたわけでもない。どんな政治的な状況の変化にも確実に前兆があったはずだが、それを市民が見逃していたり、楽観視したから状況が悪化したのだ。つまり最低の状況になってから焦っても手遅れ、ということだ。


 トップ画像は、tommy pixelによるPixabayからの画像 を使用した。

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