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国の原発政策「絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」?


 9/19、東京電力福島第一原発事故に関する裁判の判決が言い渡された。東京地裁は当時の東電幹部ら3人を無罪とした
 東京電力福島第一原発事故に関する裁判はこれに限らず複数行われており、この裁判は当時の東電幹部らの刑事責任を問う裁判だ。この裁判の発端は、被災者や弁護士が募ったおよそ1万人が、東京地検へ東電幹部らの責任を問う告訴を行ったことに始まる。しかし地検は「東日本大震災クラスの津波が原発を襲うことは予見不可能」として、2013年に不起訴処分とした。被災者や弁護士らはこれを不服として検察審査会へ審査を申し立て、検察審査会は2014年に起訴相当という結論を出した。しかし検察は再び不起訴処分とし、更に再び検察審査会が起訴相当を示す事態となった。司法制度上、検察審査会が2度起訴相当を決めると、裁判所が指定する弁護士による起訴が行われることになっており、2016年にこの刑事裁判が始まった(原発事故の責任を誰が取るのか。「市民感覚」で始まった裁判で東電元会長らに無罪判決 BuzzFeed Japan)。


 世間一般では、この裁判で無罪が言い渡されたことの是非、という視点で語られている場合が多いように思う。しかし個人的には有罪/無罪よりも、無罪とした裁判所/裁判官の判断理由の方に注目すべきと考える。結果でなく判断のプロセス/過程を考えるほうが重要ではないだろうか。今も尚自宅に戻れない被災者などが、東電や当時の幹部の責任が認められることを望んでいるのは理解できるし、これから書くことを元に考えれば、無罪という判断が適当とも思えないが、この種の事案の場合、結果に注目し過ぎると感情的な議論になりがちだ。有罪/無罪に関する検察と裁判所の判断が妥当か、という話からは一旦離れて考えることにする。


 この件は当然多くのメディアが報じており、「東電公判 旧経営陣全員無罪に|NHK 福島県のニュース」では、東京地方裁判所の永渕 健一裁判長は、原発事故を引き起こすような巨大な津波の発生を予測できたかについて、
 津波が来る可能性を指摘する意見があることは認識していて、予測できる可能性がまったくなかったとは言いがたい。しかし、原発の運転を停止する義務を課すほど、巨大な津波が来ると予測できる可能性があったとは認められない
とし、その上で
 原発事故の結果は重大で取り返しがつかないことは言うまでもなく、何よりも安全性を最優先し、事故発生の可能性がゼロか限りなくゼロに近くなるように必要な措置を直ちに取ることも社会の選択肢として考えられないわけではない。しかし、当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず、3人が東京電力の取締役という責任を伴う立場にあったからといって刑事責任を負うことにはならない
と無罪という判断の理由を示したと紹介している。一応補足しておくと、この部分の前提には、「裁判長「あらゆる可能性考慮すれば原発運転は不可能」 東電旧経営陣無罪判決 - 産経ニュース」で示されている、
 事故を回避するためには、(原発の)運転停止措置を講じるほかなかった
という裁判官の認識が前提になっているようだ。また、その産経新聞の記事では、裁判官は原発の運転停止について、
 ライフラインや地域社会にも一定の影響を与えることを考慮すべきだ
 予測に限界のある津波という自然現象について、想定できるあらゆる可能性を考慮し、必要な措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転はおよそ不可能になる
と述べたとも紹介している。

 多くの報道で、津波の予見可能性について「旧経営陣3人が巨大な津波の発生を予測できる可能性があったとは認められない」という、東京地検や東京地裁が示した判断は妥当なのかという点に焦点が当てられている。9/19放送のNHK・クローズアップ現代「東電刑事裁判 見えてきた新事実 / Internet Archive」でも、その点を重点的に取り上げていた。そこで紹介されていた、東電が東日本大震災級の津波対策を検討していたのと同時期に、日本原子力発電でも同様の検討がされており、福島第一原発から南におよそ110kmにある、同社が管理する東海第二原発では津波対策が始められていた、という話等を勘案すれば、検察や裁判所が示した津波の予見性に関する判断の妥当性は低い、と言えるのではないか。
 しかし、自分が注目したいのはその点ではない。裁判官が示した「当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」という、東電幹部らに刑事上の責任を問えないとする根拠と、「想定できるあらゆる可能性を考慮し、必要な措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転はおよそ不可能になる」という、おおよそ理解し難い認識だ。率直に言って、裁判官の話は支離滅裂としか思えない。


 まず、「当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」についてだが、ここでの「当時」とは、東日本大震災級の津波が生じる恐れと対策の必要性を検討していた時期を指しているので、少なくとも2000年以降だ。世界中の誰もが知っていると言っても過言ではない、旧ソ連・チェルノブイリ原発事故が発生したのは1986年のことである(Wikipedia)。この事故によって広大な地域が放射性汚染に晒されたことを、政治家や専門家が知らない筈がない。にもかかわらず「2000年以降の時点で、日本では原発の絶対的な安全性の確保が前提ではなかった」などという話は果たして妥当だろうか。しかも日本は世界で唯一、しかも広島・長崎への原爆投下と第五福竜丸という3度もの被爆経験のある国だ。
 この裁判官は「国や電力会社は原発の安全性を謳っていたが、それはあくまでも建前であって事故が起きないという話ではなかった」という見解を示したことを理解しているだろうか。つまり、裁判官の示した「絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」という見解が妥当だとすれば、国や電力会社は原発立地地域住民、そして全ての国民を欺いていたことにもなりかねない。
 次は、「想定できるあらゆる可能性を考慮し、必要な措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転はおよそ不可能になる」という話についてだ。この話は、言い換えれば「原発が運転できなくなるような、不測の事態性まで考慮する必要はない」と言っているようにも感じられる。つまり、原発稼働ありきで考えなければこのような発想にならないのではないか。

 この絶対的な安全性の確保・必要な措置を講じることが義務づけられれば、原発の運転はおよそ不可能、という、裁判官が東電幹部らに刑事責任を問えないと説明する為に挙げた話について、「ならば自動車や飛行機も絶対的な安全性など確保できないのだから運用できなくなるな」という見解を示す者もいる


 確かに、自動車や飛行機だって事故が起きれば、人の命が失われるという取り返しのつかない事態にはなる。しかし原発が事故を起こした際に生じるリスクの取り返しのつかなさ加減はそれとは比べものにならない。自動車や飛行機の事故では事故発生地域に何十年も人が住めなくなるようなことはないし、何万人もの人が長年健康被害に晒されるようなこともない。得られるメリットとリスクの大きさを天秤にかけて考え、負うリスクが多きするぎるという点で自動車や飛行機の事故と原発事故は大きく異なる。自動車や飛行機だって、メリットよりもリスクが大きいと考え利用を避ける人がいる。しかし、原発は個人で避けようにも、影響が及ぶ範囲が広範囲過ぎる。
 例えば、1980年代のWRC:世界ラリー選手権にはグループBというクラスがあったが、規制が緩かったこともあり開発競争が激化し、その頂点とも言える1986年にドライバー/観客が死亡する事故が多発し、その結果グループBはWRCから排除されることになった。つまり、グループBはリスクが大きすぎる、安全性の確保がままならないという理由で、安全性の確保が出来るグループAに移行したわけだ(第8回:WRC――グループBの挑発 ひたすら速さを求め続けた狂乱の時代 - webCG)。自動車や飛行機だって、殆ど起きないような不測の事態に対する対応は確実に行われているし、得られるメリットに比べてあまりにもリスクの大きい機体は運用が認められない。
 因みに、「そんなに原発が嫌なら日本から出ていけ」などと言う人も出てくるかもしれないが、その主張は、政府に対して異論がある者を排除することに他ならないし、日本の主権者は政府や権力者でなく国民であって、少なくとも日本国民なら、例え同じ日本国民からだとしても、他者に「出ていけ」なんて言われる筋合いはない。


 少し話が逸れたが、厳しく言えば、当該裁判官の見解はこの「じゃぁ、自動車や飛行機に乗るなよ?絶対的に安全じゃないんだし」と似たような、かなり短絡的な認識がベースにあるのではないか?と考える。

 この投稿を書くにあたって、他にも
などを参考にした。毎日新聞は「罪を問うハードルは高かった」という見出しを記事に付けているが、ハードルが高かったのではなく、裁判官の認識不足、言い換えれば裁判官のレベルが低かっただけではないだろうか。この裁判はまだ1審であり、正式な表明はまだないが、これからも裁判が続くのだろうから、上級審では、有罪/無罪のどちらになるにせよ、支離滅裂な見解を裁判所/裁判官が示さないことを望む。


 トップ画像は、slightly_differentによるPixabayからの画像 と、Postage Stamp png download - 810*608 - Free Transparent Rubber Stamp png Download. を合わせて加工した。

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