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ファッションやお洒落を楽しむ余裕


 自分はファッションやお洒落にあまり執着がない。いや「執着がない」は妥当ではないかもしれない。出かける際には必ず帽子をかぶるし、靴は主にスリッポンで、紐のある靴は運動する時以外殆ど履かない。そのような特定のアイテムに対する執着はあるが、世間一般的にお洒落と言われる人達程ファッションに興味はなく、服や靴などを買うのも半年から1年に1回程度だ。「去年のアイテムを今年も使うのは恥ずかしいよね~」とか言っている人には賛同できない。気に入ったものは擦り切れるまで使い続ける。
 しかしクルマがとても好きで、クルマのドレスアップにはとても興味がある。雑誌などで紹介されるようなレベルではないが、クルマを買ったらとりあえずホイールを履き替えるのはマストだし、ボディにも何かしらパーツやカラーリングを加えるなど、つるし状態で乗ることはあり得ない。

 ファッションやお洒落は人の為でなく自分の為にするものだから、他人にとやかく言われたくない

という話をしばしば耳にする。まさにその通りだと思う。SNSなどで自分の服や靴・コーディネイト、クルマのドレスアップを公開している人に対して、「ダサwwww」「センスなさすぎww」なんてコメントが浴びせられていることがよくある。率直に言って、自分のセンスと合わないだけで嘲笑する人は、自分に自信と余裕がなく他人のセンスを貶さないと自尊心を満たせない人なのだろう、としか思えない。
 例えば、ファッション誌やクルマ雑誌で紹介されているコーディネイトやカスタムカーについて、友達と内輪で「ダサwww」「センスなさすぎww」と盛り上がるのは何も問題ない。しかしSNSで誰かの投稿に対して直接嘲笑するということ、若しくはスクショや画像を転載して揶揄するということは、決して内輪で盛り上がる行為とイコールではない。SNS上で直接嘲笑するという行為は、街中で隣に居合わせた人のファッションに対して、いきなり「ダサwwww」「センスなさすぎww」と面と向かって言う行為に近い。カスタムカーミーティングにクルマを出品しているクルマとオーナーに、面と向かって「ダサwwww」「センスなさすぎww」と言う行為ともよく似ている。そんなことをすれば場合によっては喧嘩になるかもしれないし、喧嘩にならなかったとしてもかなり失礼な行為であると、分別のある大人なら分かる筈だ。

 少し話がそれるが、堀江 貴文氏が、都内の企業に12年間勤務する会社員の、12年働いても月給が手取りで14万円だ、というネット掲示板への投稿に共感の声が起きている、という記事を引用し、


とツイートしたことが話題になっている(堀江貴文氏 12年間勤務で月給14万円「日本終わった」と嘆く会社員に「お前が終わってんだよ」/芸能/デイリースポーツ online)。
 この件に対する反応は、14万円という手取りが妥当な額か否か、安いとしてそれは個人の努力不足なのか企業や行政の怠慢なのか、のような話が多いが、そもそも見ず知らずの他人に対して、その人がどんな状況にあるのか詳しく分からないのに、恥ずかし気もなく「お前がおわってんだよwww」と嘲笑できる人は、大人として終わってる、としか思えない。10/9の投稿で紹介したように、堀江氏がN国の公認候補となると発表があり、同党の立花氏の選挙の戦い方について「頭良すぎてやばい」などと言っているそうだから(ホリエモン「頭良すぎてやばい」 N国党首の“ねらい”を解説 - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ))、彼は別の意味でも終わった人だ。


 話をファッションやお洒落に戻す。BuzzFeed Japanはこの数日感の間に、「これからは隠さず「魅せる」。ある補聴器ユーザーが起こしたおしゃれ革命」「目が見えなくてもおしゃれがしたい。視覚障がい者向けのネイルサロンが叶えたもの。」という、障害者とファッションに関する記事を2つ掲載している。
 前者は、健常者が補聴器を異質なものとして見る視線などによって、聴覚障害者自身にも耳が聞こえないことへのネガティブな感情が生じがちだが、補聴器をアクセサリーのようにデコレーションすることでポジティブなイメージへ転換しよう、という内容だ。これを読んでいて感じたのは、何故日本の学校は、まるでお洒落=悪のような印象を子どもたちに植え付けるのだろうか?ということだ。厳密に言えば、学校だけでなく親にもそのような傾向がある。確かに人によっては一つのことにのめり込み過ぎて他が疎かになってしまう場合があり、ファッションにのめり込み過ぎて学生の本分である学業が疎かになるのは良くないかもしれない。しかしスポーツを学業より優先する場合、のめり込み過ぎだという指摘が殆どされない場合もある。なぜゲームやファッションなどは、スポーツ同様に場合によっては学業より優先してもよい、ということにならないのか不思議だ。
 「スポーツは学業同様に将来役に立つ可能性があるから」という声が聞こえてきそうだが、Eスポーツ選手やゲーム実況Youtuberという生業が出てきたのだからゲームだって同様だし、スポーツ選手で食っていける率とEスポーツで食っていける率に大差があるとは思えない。ファッションなら関連する職業はそれらよりも更に広範で、将来役に立つ可能性は充分にある。「スポーツは体力等が身に付く」という声もありそうだが、ゲームだってパソコンやネットに関するスキルが身に付くし、ファッションだってデザインや美術的センスを高めるのに役立つだろう。しかもこれらの記事で取り上げているように、ファッションで社会に貢献することだってできるのだから、日本の大人や学校教育のファッション軽視は偏見によるもの、と言えるのではないだろうか。

 後者は見出しの通り、視覚障害者向けのネイルサロンについての話で、視覚障害者がファッションを楽しめるのか、ということについて書かれている。自分のネイルを自分で直接確認できないのに、それを施す必要があるのか、という健常者目線の疑問に対する回答と言っても良さそうだ。
 健常者は自分が着たい服やしたい髪型・化粧などを、自分の目で確認して選ぶ。視覚障害者はそれが出来ないか、出来なくはなくても困難な場合が多い。しかし目が見えなくても、元々見えていた人に限らず元々見えなかった人でも、言語表現などによるイメージは持っているはずで、どんなものかを伝えて貰えば、そのイメージによってファッションを楽しむことができるはずだ。
 ファッションは視覚的な満足だけが全てでなく、それを身につけているという感覚による充足感が得られる側面もある。視覚に障害があっても後者を得ることでファッションは楽しめる。例えば、クルマとは基本的に運転するもので、どんなに外装をドレスアップしても、走っている自分のクルマを客観的に眺めることは難しい。誰かに頼んで撮影して貰う方法や、誰かに運転して貰って別のクルマで並走するなどの方法で、視覚的に自分のクルマを楽しむこともできるし、止まっているクルマを眺めるなども視覚的に楽しむドレスアップの楽しみ方だが、「こんなパーツを付けているクルマを自分が運転している」「自分だけのカラーリングのクルマを自分が運転している」など、視覚的に見えなくても得られる充足感は確実にある。それはファッションでも同様で、健常者だって鏡の前に立つか写真を撮らなければ自分の全身像を見て楽しむことは出来ない。しかし全身像が直接見えなくても得られる充足感は確実にある。
 とはいってもやはり、視覚に障害があると1人でファッションを楽しむことは、健常者に比べれば確実にハードルが高い。信頼できるスタイリストかそれに準ずるような存在の人がいれば、視覚障害者がもっとファッションを楽しむことができるようになるのではないか。


 冒頭でファッションやお洒落にあまり興味がないと宣言した自分が言うのも変だが、1つ目の記事でも書かれているように、ファッションには人をポジティブにすることができる側面があり、障害者に限らず健常者も含め、もっと多くの人が気軽にファッションを楽しめるようになればいいな、全ての人がファッションを楽しめるぐらい余裕があったらいいな、そうなれば規模の大小にかからわらず世界中の争いごとも少なからず減りそうだな、というのがこれらの記事を読んだ感想だ。


 トップ画像は、PexelsによるPixabayからの画像 を使用した。

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