スキップしてメイン コンテンツに移動
 

未熟な者のSNSへの不適切な投稿でも、「若気の至り」では済まない理由


 10/28に行われた青森市議選で初当選した山崎翔一氏が、ツイッターの匿名アカウントで差別的な投稿をしていたことが発覚し大きな注目を浴びたという件について、11/7の投稿「批判と中傷を混同してはいけない」で個人的な見解を書いた。この騒動後初めて開かれた11/26の青森市議会(臨時会)では、この一件を勘案して山崎氏への辞職勧告を決議したそうだが、当の本人は「入院加療を要する病気のため」として議会を欠席したらしい(毎日新聞の記事)。
 記事ではどんな病気なのかについての記述はないが、恐らく当該案件に関する精神的なダメージということなのだろう。確かに、当該案件について、過剰な人格否定としか言えないSNSへの投稿なども見かけたので、もし彼の病欠理由が当該案件に関する精神的なダメージでも、全くの嘘・仮病とまでは言えないかもしれない。しかし、問題視された彼のSNS投稿「年金暮らしジジイを舐めすぎ」「片腕落として障害者雇用」等も、年金に頼って生活している高齢者男性や、障害者に精神的なダメージを負わせる行為で、彼に対する不当な人格否定を容認するつもりは一切ないが、結局は、自分がした行為が彼自身にはね返ってきたという事のような気もする。
 厳しいようだが、「その程度で入院を要する病気になるのなら、あんな馬鹿げたSNS投稿をするな」と言いたい。


 この件のように、有名人の過去のSNS投稿が発掘され(厳密に言えば、青森市議の件は過去のSNS投稿ではなく、現在進行形のアカウントの使い分けだったが)、批判を浴びるという事がしばしば起きている。7/29の投稿「責任と処分のバランス、メディアがもたらす影響」でも触れたように、現在20代半ばの漫画家が、19歳当時の差別的なツイートを指摘され、それについて開き直るような反応を見せて連載が打ち切られるという件もあった。またBuzzFeed Japanは11/24に、「許せる? 許せない? ネットセレブが有名になる前に投稿した人種差別ツイート」という英語版からの翻訳記事を掲載している。

 漫画家の件もBuzzFeedが記事化したネット上の有名人の件も、現在成人している者の、未成年当時の差別的なSNS投稿が問題視されたという共通点がある。厳密に言えば日本の漫画家の件は、成人した彼が指摘に対して開き直って差別を容認するかのようなSNS投稿を重ねたという要素もあるが、主に問題視されて論じられていたのは未成年当時の投稿だ。
 確かに、未成年者は未熟な存在で、不適切な投稿はある意味では「若気の至り」なのかもしれない。自分も10代の頃はハーケンクロイツがなぜ忌み嫌われているのかを正確には理解していなかったし、同性愛者や外国人の差別にも無頓着だった面もあっただろう。もしかしたら彼らがSNSへ投稿したのと似たような発言をどこかでしていたかもしれない。これまで一切差別的な発言をしたことはないなんて言いきる自信もない。

 数年前にバカッターと言われる悪ふざけをSNSへ投稿する行為が問題になった(厳密には今でもしばしば発覚し問題視される)。コンビニのアルバイトがアイスクリームの冷蔵庫へ入った写真をSNSへ投稿したり、動画投稿サイトで注目を集める目的でコンビニのおでんを素手でつつく様子を撮影して投稿する者が現れたり、小学生の通学時間帯に信じられないスピードでクルマを走らせて子供が怖がる様子を撮影して投稿する行為などが問題視された。少し前にも、法定速度の時速60km/hの大阪・第2阪奈道路のトンネルで約280km/hで車を走らせた男が逮捕されたが、彼は自ら走行の様子を撮影してYoutubeに公開していた。取り調べに対して
 車の性能を試すため、過去にも10回ほど同じようなことをして動画を上げた。みんなに見てほしかった
とも述べたようだ(産経新聞の記事)。この男性は35歳だそうなので、到底「若気の至り」で済む話ではないが、所謂バカッターと言われるこのような事案の背景には、11/23の投稿でも触れた、注目を集める為なら不適切な行為も厭わないというようなネット上の機運と、全世界の誰もが閲覧可能なネットへの投稿と、井戸端会議や居酒屋での会話、つまりオフレコの会話を混同する為に起こるのだろう。

 青森市議の件については、政治家という立場を勘案すれば、彼が差別的な主張をSNS投稿でではなくオフレコの会話でしていたとしても、それが発覚すれば問題視されただろうが、漫画家やネット上の有名人であれば、未成年時に差別的な主張をどこかでしていたとしてもそれがオフレコの範囲なら「若気の至り」ということで概ね済んだだろう。彼らが何を間違ったのかと言えば、差別的な主張を主に自分しか見ない日記帳に書いたのではなく、所謂バカッター同様にSNSへ投稿してしまったことが大きな過ちだ。勿論、差別的なSNSへの投稿は未成年当時の投稿という事を勘案して判断をするべきだという事も一部理解はできる。だが、ネットへの投稿はデジタルタトゥーなどとも表現されるように、一度投稿すればどこかに確実にログが残る。
 例えば、未成年者が若気の至りで、服を着ても見える首筋にハーケンクロイツの刺青を入れたら、彼は一生その影響を受け続けるだろう。「若気の至りで入れてしまった」と説明しても、全ての人がその説明を受け入れてくれるとは限らない。というか初対面の人には十中八九差別主義者のレッテルを貼られるだろう。確かにレッテル貼りは良くないかもしれないが、目立つ場所にハーケンクロイツの刺青が入っていればレッテルを貼られてもある意味仕方がないとも言えるのではないか。
 SNSへの投稿も概ね消せない過去としてログが残る。そのように考えれば、内輪の会話で差別的な発言をしたり、ほぼ自分しか見ないノートに差別的な主張を書き綴っても「若気の至り」で概ね済むかもしれないが、世界中の誰もが自由に閲覧できるSNSへの投稿は、そうは受け取ってもらえなくてもある意味では仕方ないという事だろう。

 何故SNSへの差別的な投稿は未成年者であっても、単純に「若気の至り」で済まないのかについては、もう一つ別の理由もある。この投稿の冒頭でも触れたように、誰もが閲覧可能なSNSへの投稿は、内輪の会話で差別的な発言や、概ね自分しか見ないノートに書き綴った差別的な主張とは違い、その投稿が誰かを強く傷つける恐れがある。有名でもない一人の未成年者の些細な投稿1つでは深刻に誰かを傷つける恐れは低いが、そのような些細な投稿であってもそれなりに数が集まり束になれば深刻なダメージを与えかねない。だから1つ1つは些細な差別であっても責任は薄いとは言えないし、未成年当時の投稿であっても批判・否定されて当然だ。いつの投稿かに関係なくそれは束を構成する1つになり得る。勿論過去の投稿だからと開き直るような態度は言語道断だ。

 差別的・偏見に基づくSNS投稿が問題であるのは当然のこと、公開アカウントでのSNS投稿はデジタルタトゥーを自ら刻んでいるようなものであることも、SNSを利用する者は、たとえそれが未成年者であっても理解しておく必要がある。大雑把な判断基準として、多くの人で混雑する東京駅のど真ん中で、覆面などせずに素顔のまま、拡声器を使用して叫ぶことが出来ないような事はSNSへ書き込むべきでない、と自分は思っている。あくまで大雑把な判断基準なので、基準をはみ出てしまうケースもそれなりにあるだろう。

 余談だが、SNS上で過激な発言が蔓延している背景には、不適切な発言を政治家が「誤解を招く発言」と安易に片付けること、マスコミや有権者等周りがそれで有耶無耶にしてしまう事を半ば容認している状況もあり、それも大きな要因の一つなのかもしれない。勿論逆に言えば、似たような性質の有権者が、そのような政治家を問題視せずに選んでいるという事でもあるだろう。だた、政治家が「誤解を招く発言」という表現でお茶を濁すケースが多かろうが、不適切なSNS投稿が「若気の至り」で済むケースはかなり限定的である。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。