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平成も終わろうというのに尚続く昭和の悪い部分


 「平成最後の」という枕詞が、年末年始ということもあって昨今これまで以上に飛び交っているという話は、12/31の投稿1/1の投稿で既に書いた。平成も残すところ後4か月で、昭和から平成への改元を経験している自分の感覚だと、元号が変われば何か新しい時代が始まるかのような気分になるのだろうと思う。その頃の自分はまだ10代だったし父親は公務員だったこともあり、その恩恵を強く感じていたわけではないが平成元年はまだバブル景気の中にあり、昭和から平成に元号が変わると素晴らしい時代がやってくるかのように思えた。
 近代以前の日本には一世一元の決まりはなく、災害や不吉な出来事の悪影響を絶ちたいという思惑や、何かの区切りとして改元が行われることもしばしばあったそうで、昭和から平成への改元に限らず、「何か新しいことが始まる感」を多くの人が元号が変わる事・変える事に感じていたようだ。ただ、決して平成が最低最悪だったわけではないが、実際の平成はその頃の自分の想像とは大きく違い、全面的に素晴らしいと言えるような30年ではなかった。


 子供の頃に読んだ絵本や小学〇年生で描かれていた21世紀の予想図では、超高層ビルの間を縫う透明なチューブ形状の道路の中を、地面から浮いた自動車が走っていたり、道路そのものがなく、自動車が空中を飛び交ったりしていた。1989年に公開された映画・バックトゥザフューチャー2では、2015年の世界としてそんな様子が描かれていたが、2018年の現在も相変わらず自動車は常に4つのタイヤで走行しており、空飛ぶ車は実用化には至っていない。過去に想像した未来・予測した未来が実際とは大きく異なるなんてのはとてもよくある事だ。
 因みに、過去の予測を現実が大きく上回ることもある。例えば、最初のガンダムから続く宇宙世紀シリーズは、西暦の後に始まる宇宙世紀という紀年法を用いる世界を描いている。最初のガンダムが制作されたのは1979年、パソコンもまだ全然一般化する前のことなので、今では当然になっている携帯電話もタブレット端末も一切出てこない(とても分厚いタブレット端末?のような何かは一応出てくる)。それどころか通話に使用する受話器は大抵カールコードが付いている。1979年の常識ならそれで当然だろうが、それら情報端末の現状は、当時とても未来的に見えた作品の中で表現された予測を既に大きく超えている。

 Wikipediaのセクシャルハラスメントのページによると、日本で「セクハラ」という表現が使われ始めたのは、1980年代半ばの事だそうだが、大きく取り沙汰され始めたのは、1989年に福岡の出版社に勤務していた女性が、上司のセクハラ行為を訴える民事訴訟を起こしてからだ。1989年とはまさしく昭和64年/平成元年で、日本でセクハラ、というかセクシャルに限らずハラスメント行為が、初めて広く問題視されたのは平成に入ってからだ。つまりセクハラ・パワハラ問題は平成を象徴する大きな出来事の一つでもある。
 今年は平成31年だそうで、平成も30年にもなれば、つまりセクハラに関する問題提起・問題視が始まってから30年も経てば、多くの人の認識も変わっていてもおかしくない筈だし、当時の被害を訴えた人達も「流石に30年後には問題は収束しているはず」と思っていただろう。
 しかし、昨年・2018年4月に発覚した財務省事務次官のテレビ朝日記者へのセクハラ行為や、それに関して財務大臣兼副総理大臣が被害を訴えた女性に「名乗り出ろ」と言ってみたり、「(被害者)に嵌められた可能性も否定できない」なんて発言をしてみたり、30年経っても相変わらず昭和のままの感覚の人が、しかもその2人以外にも官僚や閣僚に複数いるようで、それではセクハラ問題(勿論パワハラ問題も)は解消する筈はない、解消出来なくても仕方ないと思う。当然仕方ないから諦めようなんて全く思っていない。感覚のおかしい人には、少なくとも国を代表するような立場、広く国民の手本になるべきような振舞いが求められる立場から速やかに退場して貰いたい。
 国を代表するような立場の人がセクハラに無頓着であることの影響なのか、単にこの人も昭和をこれまで引きずってきただけなのか、その両方なのかは定かでないが、毎日新聞は2018年12/28に「茨城県 セクハラ懲戒の元厚労省局長を顧問に 「それを上回るメリットある」」という記事を掲載している。見出しほぼそのままの内容で、2018年4月にセクハラで戒告の懲戒処分を科され7月に退職した厚労官僚が、茨城県に天下っていたことについて、知事が「処分は認識していたが、それを上回るメリットが(県に)ある」と述べたという記事だ。確かに、セクハラを一度でも起こしたら世の中から抹殺されるようなレベルの制裁にあうべきという考え方には、自分も一切賛同出来ないが、知事の「相応の能力がある人のセクハラ行為にはある程度は目をつぶるべきだ」と言っているようにも聞こえる言葉選びのセンスのなさには驚かされる。この知事はセクハラの訴えがあっても、その加害者によっては揉み消しを計ろうとするんじゃないか、という懸念を感じてしまった。平成最後の年末に見た悪しき昭和の姿だ。


 自民党・杉田議員のLGBT差別に対する差別的な主張をしたこと、それに対する批判が高まったことも、2018年の象徴的な出来事の一つで、ハフポストは2018年12/31に、LGBTの支援を行う団体の代表である松岡 宗嗣さんが書いた「「私たちはもう黙らない」LGBTをめぐる2018年の社会の動きを振り返る」という記事を、同団体のサイトから転載する形式で掲載した。年末に行われた2018年のLGBT関連の話題を振り返るイベントでのディスカッションを紹介する内容の記事で、当然杉田氏の主張や、それを強引に擁護した人達への違和感や不快感が主に論じられているのだが、その一方で
 自民党前の抗議について(世田谷区議の)上川さんは「気をつけないといけないのは、では自民党自体を敵視することが正しいのかどうか」だと話す。
ということも紹介されている。上川 あやさんはLGBTだと公言している無所属の世田谷区議で、彼女は、
 与党が圧倒的な議席数を占める議会で、野党だけを応援するのは非現実的です。現政権下、なりを潜めている心ある議員を見落としてはいけないし、耕していかないといけない。
 やはり、実際に対面で話すことで、目の前の人の体温や熱意が伝わり、イメージを塗り替えていくことができると思います。はじめから向こう岸に追いやるのではなく、理解できるひとがいるという可能性を広げていくことが大切です
とも述べており、つまり対立するよりも対話を求めることが問題解決の為には重要だ、という事なのだろう。
 確かにそのような側面は確実にある。しかし自分はこの話を前面的に肯定できないでいる。それは何故かと言えば、当時自民党の二階幹事長が、杉田氏の差別的な発言について「人それぞれ政治的立場、色んな人生観もある」と黙認するような発言をしたのに、党内から明確な異論が起こらなかったからだ。それでは自民党自体が軽蔑されても仕方ないのではないか。確かに自民党が与党・多数派である限り、実際には違和感を感じている自民党議員を説得して、動いてもらうしか問題を解消する方法はなさそうだ。しかし、もし実際に自民党内に違和感を感じている議員がいるのだとしても、彼らは現状では「差別発言を積極的に問題視しようとしない傍観者」であることに違いない。このブログでは再三書いているが、平成以降の日本では確実に「いじめを傍観するのは、いじめに加担しているのも同じ」と教えられてきた筈だ。


 このAC・公共広告機構のCMでもそう提起している。子どもらに向けてこんな啓発をしているのに、大人、しかも与党の国会議員が差別発言や、それを黙認する幹事長を知らんぷりでもいいのだろうか。勿論いい筈などない。言い換えれば、全ての自民党議員は、消極的にではあるが差別に加担している、と自分には感じられる。

 また、首相ら自民党の首脳陣は「杉田氏の発言は若気の至り」的な見解を揃って示していたが、昨日・1/4に日本テレビは「“LGBTばかりになったら国はつぶれる”」という見出しで、LGBTに関して自民党の平沢 勝栄衆議院議員が「LGBTばかりになったら国はつぶれる」と発言したと伝えている。平沢氏は現在73歳だ。既に50歳を超えている杉田氏の発言を「若気の至り」かのように言う事にも強烈な違和感があったが、73歳の平沢氏の発言も「若気の至り」なのだろうか。自民党が党として何と説明するのか大変興味深い(実際は都合の悪い事には言及しないだけだろうと予想している)。
 記事によると平沢氏は、1/3に山梨県で開かれた集会で少子化問題に触れた上で次のように述べたそうだ。


 LGBTで同性婚で男と男、女と女の結婚。これは批判したら変なことになるからいいんですよ。もちろんいいんですよ。でもこの人(LGBT)たちばっかりになったら国はつぶれちゃうんですよ
また、渋谷区や世田谷区が同性婚について証明書を出していることについて「先進区だとか自慢しているが、私にはその考え方はよくわからない」とも述べたそうだ。杉田氏が差別的な主張を繰り広げたこと、それを党幹部が事実上黙認したこと、それについて他の議員から明確な異論が出なかったこと、そしてその一連の流れが教訓として全く活かされていないとしか思えない平沢氏の発言を勘案すれば、杉田氏や平沢氏は単なる氷山の一角で、自民党内には差別を容認・若しくは肯定するような空気があると考えることがそれ程不自然と思えない。付け加えておくと、2017年11月に竹下議員も同性愛者を蔑むような発言をしている(2017年11/24の投稿)。それなどもそう思える要因の1つである。
 杉田氏の主張は勿論、終わりに差し掛かった平成でも悪しき昭和がまだ生きながらえている証拠だし、平沢氏の発言は平成最後の年始に見た悪しき昭和の姿だ。

 このような状況を見ていると、平成が始まって30年が過ぎても尚、そしてその平成が終わり新しい時代が始まるような雰囲気があるにも関わらず、昭和の悪い部分はこれからも当分続いていくのだろうと、とても残念な気分にさせられる。
 現政府与党が掲げる幾多の「○○改革」とは、一体何を指しているのだろうか。なによりもまず「自民党改革」が必要不可欠なのではないだろうか。10数年前に小泉 純一郎氏は「古い自民党をぶっ壊す」というスローガンを掲げて党総裁・首相になったが、悪い昭和の感覚を今も壊さず大事に持ち続けている自民党議員は少なくないのだろう。しかし、今の感覚で見れば、ある意味で彼らが時代に取り残されて「ぶっ壊れている」ように見えてしまうのはとても皮肉だ。
 ただ、時代に取り残された「ぶっ壊れている」人が多数在籍する党、「ぶっ壊れている」人に副首相を続けさせるような党・政府・首相を、選挙の度に国民が信任し続けているということは、自民党だけでなく日本全体で見ても「ぶっ壊れている」人の方が多いのかもしれない。

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