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安倍首相問責決議案の審議に関連して


 昨日・6/24、参議院で安倍首相に対する問責決議案が、自民・公明・維新などの反対多数で否決された。朝日新聞「安倍首相への問責決議案、参院で否決 野党が提出」などによると、野党は今日・6/25に内閣不信任決議案を衆議院へ提出する方向で調整を進めているそうで、「衆院解散・衆参同時選の可能性は低い」という見解が大勢を占めるものの、それでも一部では「不信任案の提出を口実とした衆院解散の可能性もある」と言っている者もいるようだ。
 この昨日の問責決議案否決に関しては、ほぼ茶番のようなことが繰り広げられるだけというのが見え見えだったこともあり、確かに余りニュースとしての価値はそれ程高くはなかったようにも思うが、何よりも昨日は、6/7の投稿でも取り上げた、よしもと所属の複数の芸人が、詐欺グループが2014年末に催した忘年会へ出席したことに関する事案で、当初は多くの芸人が出演料の受け取りを否定していたのにも関わらず、それが嘘だった、つまり金を受け取っていたことが公になり、謹慎処分が科されることになった(BuzzFeed Japan「吉本興業の芸人11人、“闇営業”で謹慎処分 雨上がり決死隊・宮迫ら(謝罪コメント全文)」)という話題に注目が集まったため、問責決議案の件はその陰にも隠れる形となった。
 今日もし不信任案が提出されたとしても、衆院が解散されない限りは結局よしもと芸人事案の方が注目され、特にテレビ各局は今日もそちらを大きく取り上げられるのだろうから、6/19の投稿でも触れたように、よしもと と安倍首相や自民党の距離感を勘案すると、自民党か首相が、若しくはその両者が、問責案にしろ不信任案にしろ提出されれば野党側の演説が国会で行われ、少なからずそれは報じられるので、少しでも国民の注意を国会から逸らそうという目論見で、よしもとにこのタイミングで処分を発表して欲しい、と以来していたのではないか?なんて邪推もしてしまう。今国会後半、与党が頑なまでに予算委員会開催を拒否し続けたことも、そんな風に邪推してしまう一因だ。


 昨日の国会本会議の中で話題になったのは、安倍首相への問責決議案に対して自民・三原 じゅん子氏が行った決議案に反対する演説である。



 このムービーは彼女の演説だけを切り出した8分のムービーだが、日テレNEWS24「あす不信任決議案提出へ 問責決議案は否決」などが、審議全てを短い約1分30秒程度のムービーにまとめている。日テレは三原氏の演説から
 民主党政権の負の遺産の尻拭いをしてきた安倍総理に感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、まったくの常識外れ、愚か者の所業とのそしりは免れません
という部分を切り出している。なぜ彼女は野党が問責決議案を提出した理由に反論せず、6年も前の民主党政権批判をしているのだろうか。勿論、およそ8分の演説の中では、現野党の姿勢への批判も見られたが、それだって問責決議案への反論ではなく、野党が提出した案だから反対しているとしか言えない。なのに彼女は「野党は反対ばかり」というニュアンスの表現も用いる。彼女も、合理性のあるとは言い難い理由で安倍総理をただただ礼賛し、野党を罵倒し、統計不正発覚と共に脆くも崩れ去ったアベノミクスの効果を今更再び誇り、漫然と「反対だ―、反対だー」と言っているようにしか見えない。
 付け加えると、彼女は「この一年間、憲法審査会はたった3分しか開かれていない、議論から逃げ回っているのは、一部野党ではないのか」とも述べ、その直前に「胸に手を当てて考えろ」とも言ったが、今国会の後半で頑なに予算委員会の開催を拒否し続けた自民党の議員が一体どの口で言うのか? 昨年は野党が審議を拒否したら○○連休などと揶揄していたではないか、としか思えなかった。兎に角演説全体を見ても、一部の政権・自民党積極支持者らが用いる常套句を散りばめたかのような説得力に欠ける、というか彼女への信頼感すら下げかねない合理性を著しく欠いた内容の演説だった。しかも彼女は自身のツイッターで、この演説を誇らしげに自慢している(その1 / その2 / その3)。彼女の演説やその姿勢はある種カルトの信者、もしくはシンボル的存在にも見えた為、俳優出身である彼女は、単に自民党の広告塔にされている(自ら進んでなっているのかもしれない)ようにも見えた。
 彼女の演説で「流石だな」と思えたのは、その俳優だったことを活かした演技力だけだ。話の内容は指摘するべき点ばかりで論外だが、訴えかける気迫だけは流石俳優出身の議員という雰囲気が感じられた。中身のない迫真の演説とカルトの関係性と言えば、どうしてもNのつく組織を思い出してしまう。


 この演説を見ていて、BuzzFeed Japanが2018年1/5に掲載した、彼女へのインタビュー記事「「命を守るのに躊躇はいらない」 子宮頸がんを経験した政治家がワクチン再開を訴える理由に関するツイートを、記事の編者・岩永 直子さんが数日前にリツイートしていたことを思い出した。6/20の投稿でも触れた通り、現在国はHPVワクチン接種の積極的な推奨を行っていない。三原氏は子宮頸がんを経験した人物で、彼女はワクチン接種の積極的な推奨を再開させたい方針である。自分はこれまでも三原氏を政治家としてあまり評価していなかった、というか寧ろ資質に欠けるとすら思っていたが、この記事の内容に関しては賛同できると感じた。
 しかし、この記事を読んでからたった数日で前述のような演説を目の当たりにすると、政治家/議員/政党には「この分野だけをお任せするという意味で投票する」ことができないこともあって、急に、彼女の子宮頸がん・HPVワクチンに関する姿勢も陳腐なもののように思え始めてしまい、なんとも残念な気分になった。
 そんな感覚を表現して


とツイートした。BuzzFeedの記事は引用した際に記事の編者へのリプライが飛ぶように設定されているので、自分が元記事を引用してツイートしたのが岩永さんの目にもとまったのだろう、彼女から次のようなお叱りツイートを頂いた(彼女はお叱りのつもりはないかもしれないが、自分にはそう思えた)。


まさに彼女の言う通りだし、前述の自分のツイートでも「政治的イデオロギーと子宮頸がんの話は分けて考えるべきだろう」と書いているように、どう考えてもそう割り切って捉えられる人の方が圧倒的に素晴らしいと思う。特に病気の話や治療については、政治的な思想や立場などで対応を変えてはならない、ことも重々承知している。
 しかし彼女はやはり政治家であって、「医療分野だけをお任せするという意味で、彼女や所属政党に投票する」事はできない為、自分はこの件について、どうしても割り切って捉えることが出来ない。自分のように割り切れない人は他にも確実にいて、中には「あんな演説をする三原が言っているのだから、HPVワクチンが安全だという話も怪しい」と言い始める人もいるかもしれない。勿論そんな風に捉えることは決して合理性があるとは言えないし、むしろ間違った捉え方だと思うのだが、彼女があのような演説をしたことで、HPVワクチン接種の積極的な推奨再開を実質的に・間接的に遅れさせてしまう恐れが生じたかもしれないとも思えた。


 そんな意味でも、彼女の昨日の演説はとても残念だった。

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