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今必要なのは「継続は力なり」ではなく「諦めが肝心」


 雨が集まり川となり、川は長い時間をかけて大地を浸食し、人間が到底超えられないような断崖を作ったりする。「継続は力なり」はお説教などでしばしば用いられる慣用表現だ。この表現の意図することはいくつかあるようだが、「「継続は力なり」とは?意味や使い方をご紹介 | コトバの意味辞典」では、続けることの重要性、たゆまず、くじけずに続けていくことの大切さ、を示す表現だと説明している。似たような表現は英語にもあるようだが、この続けることの重要性を説く表現は日本人の好物のようにも感じる。何故なら「石の上にも三年」、辛抱していればやがては成功する、忍耐が大切(石の上にも三年(イシノウエニモサンネン)とは - コトバンク)という、それ以上に「耐え忍んで続けることが重要」という意味合いを強調した表現もあるからだ。


 日本人は根性・忍耐などを美徳とする傾向が強い。但し、それは決して日本特有の感覚とは言えないだろう。1983年に放送されたNHKの連続テレビ小説・おしん(Wikipedia)は、そんな日本人が美徳とする感覚を多分に含んだドラマだったが、アジア圏を中心に世界中でヒットしたそうだ。
 しかし「継続は力なり」は、いつ何時どんな状況でも当て嵌まるような話ではない。「下手の横好き」は、強い情熱を注ぐ程あることが好きなのに一向に上達しない、ことを示す表現で、場合によっては「継続しているのに力になっていない」ことを意味する。また、しばしば「諦めが肝心」という表現も用いられる。ただ、どちらにもほぼ逆の意味の表現もある。「好きこそ物の上手なれ」は、誰でも好きなことは熱心に努力するので上達が早い、という意味だし、マンガ・スラムダンクでバスケットボール部の監督が言ったセリフ「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」は「諦めが肝心」とは全く正反対の意味なので、「物は言いよう」とも言えそうだ。


 9月に災害対応そっちのけで組閣された新たな内閣の経産大臣・菅原氏が、地元の有権者にメロンやカニ・イクラなどを贈っていた、という話は10/20の投稿でも触れた。その際には、彼が就任直後に「不適切な献金を受け取ったが、知らなかった。返金したから問題はない」として事態の収拾を図った(9/22の投稿)ことを前提に、
 彼は近日中に「贈ったメロンやカニ、イクラは既に返してもらったので問題はない」と言い始めるだろう。
と書いたが、 その後、公職選挙法で禁じられている、選挙区内の有権者への香典を秘書が渡していたことも明らかになり、それを理由に大臣の職に関する辞表を今朝提出したそうだ(菅原経産相「おわび申し上げたい」 問題の詳細言及せず:朝日新聞デジタル)。


当該記事によると、議員辞職については「そこはよく確認していきたいと思います」と述べたそうだ。公職選挙法に抵触する行為に手を染めていたなら、大臣を辞しただけで済む話ではない。不正な方法で票を得ていたのだから、議員を辞めるのが妥当だろう。

 このようなことが起きるのは安倍自民政権では初めてではない。これまでも似たようなこと複数あった。しかし結局皆大臣を辞めるだけで済まされている。そして、大臣が止める度に首相は「任命責任は私にあり、国民に深くおわびを申し上げる」と神妙な面持ちで述べる。今回も同様のコメントをしている(安倍総理「任命責任は私に」 菅原大臣が辞表提出)。


責任を認めるなら、その責任をどうやってとるのかを具体的に示すべきだ。謝るだけなら誰でも出来る。必要なのは同じことを繰り返さない為の具体策だ。しかしこれまでに、彼が任命した大臣の中から何人も、同じ様な不適切行為、他の不適切な行為によって辞職することになっており、何度も同じことを繰り返す者が「お詫び申し上げる」などと言っても、そこには反省もなければ謝意もなく、体裁上そうしているに過ぎないとしか思えない。

 現政権のスポークスマン、つまり安倍氏の右腕である菅 官房長官は、10/24の記者会見で、菅原氏の件について「本人から報告があったか」と問われ「ない」、「今後本人から聞き取りを行う考えはあるか」と問われても「ない」と述べている



大臣による不適切な行為があったという報道があっても、本人に報告も求めないし確認もしない。するつもりもない。だから記者の質問にも答えない。
 菅氏は安倍氏ではないが、前述したように政権のスポークスマンであり、政権の顔役であり、彼が示しているのは政権全体の意思で、つまりは首相の声を代弁している側面が確実にある。もし首相が官房長官の見解が不適当だと考えるのなら、明確「政権全体の見解ではない」と否定すべきだし、菅氏が政権全体の見解とは異なる個人的見解を示すことが頻発するなら、それこそ任命が妥当とは言えない。
 こんな状況では、安倍氏が「任命責任は私にあり、国民におわび申し上げる」と言っても、全く説得力が感じられないのは当然ではないのか。


 また、副総首相兼財務大臣の麻生氏は10/24に、自民党原田議員のパーティーで、
(原田氏の中選挙区時代の地元だった神奈川県の)川崎市とか、北九州とか、(福岡県の)田川とかいうところじゃなくて、品の良さが買われたかどうか知らないけど、そこで当選をさせて頂いた
と述べたそうだ。


 この男については9/10の投稿「暴言太郎を野放しにしてよいのか」でも指摘したように、もう何度も暴言と謝罪・撤回を繰り返し続けている。この男についての任命責任に安倍氏が言及しないのは一体どういうことなのか。いつまで副首相兼財務大臣をやらせるつもりなのだろうか。任命した本人が「任命責任は私にあり、国民におわび申し上げる」などと、一切責任も取らず、反省もせず、同じ事を繰り返す人物で同じ穴の狢なのだから、こんなことになるのも当然と言えば当然だ。勿論当然だから仕方ないという話では決してない。


 安倍氏の首相在任期間は、2019年11/20で歴代1位を更新するそうだ(安倍首相在職、戦後最長に=佐藤栄作に並ぶ2798日:時事ドットコム)。冒頭で「継続は力なり」という慣用表現に触れたが、安倍政権は長いだけでしかない。拉致問題に進展はなく、北方領土問題も後退し、韓国との関係は冷え込む一方で、アベノミクスの成果とやらも水増し誤魔化しで、主に大企業にしかうま味がなく、本人も副首相も同じ過ちを繰り返すばかりで、長期政権なのに継続が力になっていない。継続期間以外に取り柄がないのに、もう7年も前の前政権のことを「悪夢」と蔑むことで、相対的に自分達を持ち上げようとする醜悪さも持ち合わせている。

 日本人は根性・忍耐・努力などを美徳とする傾向が強い。その傾向の表れなのかどうかはわからないが、力を入れている筈の外交・経済政策に殆ど成果がなく、頻発に大臣が不適当言動で辞職し、副首相は暴言を吐きまくり、官房長官は都合の悪いことには答えないのに、それでも「他よりマシ」と支持する人が少なくない。忍耐や根性を全否定するつもりはないが、悪政に耐え忍ぶ必要はない。

 今の日本に必要なのは、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」ではなく「諦めが肝心」という感覚だ。そんなことをしていたら国が亡ぶ。


 トップ画像は、skeezeによるPixabayからの画像 を加工して使用した。

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