西日本新聞によると、麻生 太郎副総理兼財務大臣が、先月行われた記者会見の中で、
と発言したそうだ(「西日本新聞の記者にしては、品がいい顔をしていると思った」|【西日本新聞ニュース】)。西日本新聞の記者にしては、品がいい顔をしていると思った
普段自分は、主張の異なる者、適切とは言い難い主張をする者に対しても敬称を付けて書く。それが最低限の礼儀だと思っているからだ。勿論すべて敬称なしで揃えるという表現方法もあるが、自分は前者を選んでいる。しかしこの投稿に限って、麻生と呼び捨てにする。西日本新聞の記事が誤報でなければ、そして彼のこれまでの言説を考えれば、最低限の敬意すら必要ないと感じたからだ。
記事によると麻生は、質問した別紙記者を西日本新聞記者と勘違いし、西日本新聞の報道姿勢に対する不満を述べ、その勘違いを指摘され、「西日本新聞の記者にしては、品がいい顔をしていると思った」と述べたそうだ。
この発言はつまり、「西日本新聞記者の顔は総じて品がない」と言っていると考えられる。もし実際に「西日本新聞には品がない顔の記者ばかり」という話が事実だったとしても、そんなことを副総経理大臣が言ってもいいものか。そもそも品がない顔とは一体どんな顔を指しているのだろうか。立小便をするとか、人前でげっぷをする等の行為を指して「品格に欠ける」と指摘するのは決して不適切な表現とは言えない。例えば、髭を伸ばし放題にしているとか、顔を何週間も洗っていないという事実があるのなら「品のない顔」と言えるかもしれない。しかし「顔立ちに品がない」という主張は、生まれ持った個性への侮辱である。
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そんな人物がなぜずっと副総経理大臣という国のナンバー2の座に居座り続けることが出来るのか? と言えば、メディアも国民も慣れきってしまい「ああ、またか」とか「麻生の言うことだから」などと、真摯に指摘・積極的に批判することをしないからだ。
西日本新聞の記事は、概ね麻生の発言に対しての憤りを表明したものだが、その記事にすら弱腰としか思えない部分がある。当該記事でも「放言を繰り返しても、財務省で前代未聞の不祥事が続いても、政権ナンバー2であり続ける麻生氏」と、麻生がどんな言動をしても責任を取らない、追及されないのはおかしいという認識が示されているが、この記事の最後は
今月11日の内閣改造でも再任される方向という。顔触れの品格こそが、問われそうである。と締め括られている。そこはどう考えても「問われそうである」ではなくて「問われる」だろう。
確かに、麻生がどれだけ暴言・放言・傍若無人に振舞いを繰り返そうが、現政権内で改竄隠蔽捏造がどれだけ繰り返されようが、選挙の度に自民党が圧勝するような状況なので、もしかしたら多くの国民は閣僚の品格など重視しないというスタンスなのかもしれない。しかし「閣僚の品格はどうでもよいか?」という世論調査を行えば、確実にいいえがはいを上回る筈だ。つまり、「閣僚の品格が問われそう」ではなく「問われる」であるのはほぼ間違いない。しかし逆に言えば、多くの国民がそれでも選挙の度に自民党に投票している状況があるから、西日本新聞に限らずメディアが政権を積極的に批判しない状況になっているという側面もある。9/3の投稿でも書いたが、そんな悪循環が既にこの国の社会には生まれてしまっている。
絶大な人気を誇るマンガ「進撃の巨人」では、大陸での民族間の対立・戦いを避ける為に、一方の王が海を隔てた島に3重の壁を築き、その中に閉鎖的な社会を作ったという設定がある。確かに、不要な対立を避けようとするのは称賛すべきだ。しかし「進撃の巨人」で壁の中に籠った民族は、対立・諍いを避けることと引き換えに、壁の中でしか生きられない状況になっている。自由を制限されることを余儀なくされている。 進撃の巨人の主人公たちは自由を求めて戦い続ける、そんな物語だ。
作者がどんな意図を込めて作品を描いているのかは定かでないが、何かと波風立てずにことを運ぶことを求められ、それが大人な振舞いであると過剰に教えられて育てられる日本の社会・自己主張することを躊躇せざるを得ない風潮への、アンチテーゼ・抵抗のような思いも込められているのではないか、なんて思えてくる。物語の序盤、主人公たちは巨人が敵だと思っていたが、敵は巨人ではなく人間だった、という設定も、そんな風に感じる一因だ。
日本国憲法12条に
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならないとあるように、現在私たちが享受している自由や権利は、生まれながらにして持つものであると規定されているものの、それを覆される恐れがないとは決して言えず、覆されることのないように国民、というか市民一人ひとりが努めなくてはならない。つまり、例えば現在の香港のように(9/1の投稿)、場合によってはそれを守る為に戦わざるを得ない場合もある。
自分達の権利を守るために戦わなくてはならないこともある、と書くと、短絡的な思考によって「ならば、北方領土や竹島の為には戦争しかないと言った丸山 穂高の発言(9/2の投稿)にも妥当性があるのではないか」と言う者が出てきそうだが、戦い・対立=戦争というのは明らかに間違った認識だ。例えば、言論による対立は戦争ではない。武力を行使しない戦いなんてのはいくらでもある。憲法9条に
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄するという規定があるにもかかわらず、それを無視して積極的に武力を行使するという意味合いで「戦争しかない」とする者の主張とは全く意図が異なる。
武力を行使することを推奨して「戦わなければならない」とするわけでは決してない。しかし、自分たちの権利と自由を守る為には、権力の行き過ぎを積極的に指摘し、異論を唱え、民主的な方法でNOを突き付けていなかなくてはならない。そのような方法で戦わなければならない。抵抗しなくてはならない。
暴言を繰り返す大臣、その大臣を重用し続ける総理大臣を信任し続けるというのは、戦いを止めて不自由を受け入れ、権利を放棄することに他ならない。