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新潮社の終焉


 新潮社は日本を代表する出版社の1つである。1896年に新聲社として創業し、1904年から文芸誌「新潮」の発行を始めた老舗だ。その新潮社が発行していた総合誌「新潮45」が昨年・2018年7月に、自民党・杉田議員による同性愛者への偏見・差別的認識に塗れたコラムを掲載し、多方面からの批判に晒された。新潮45は更に、杉田氏のコラムを擁護するあまりにも強引な正当化ばかりを集めた企画を9月に掲載し(2018年9/21の投稿)、再び批判に晒され休刊となった(2018年9/26の投稿)ことはまだ記憶に新しい。
 当時は「新潮45がおかしかっただけで、新潮社全体がそんなことになっているわけではない」という論調が多く見られ、自分もそのように受け止めていた。しかし実はそうではなく、「当時から既に新潮社全体が狂い始めていたのだろう」と感じさせる出来事を、昨日目の当たりにした。



 これが「新潮45だけがおかしくなっていたのではなく、当時から既に新潮社全体が狂い始めていたのだろう」と感じた原因だ。
 3/16の投稿にも書いたように、自分は百田直樹という作家が大嫌いである。彼のツイートはあまりにもひどく、ヘイトスピーチのオンパレードだからだ。日本にはヘイトスピーチ防止法という法律もあるのに、表現活動を生業とする作家がそんなことを平気で主張する。そしてそんな作家とその作家の作品を褒め称えろ、という企画を打つ新潮社の気が知れない。

 作品と作家/作り手の人間性は分けて考えるべき

という主張がしばしばなされる。確かに概ね1人で製作できない作品について、関係者の1人が起こした不祥事等によって、作品が全ての商品棚から排除されるような事態についてはその通りだと思う。
 しかし7/2の投稿でも書いたように、絵や写真などの芸術作品をお金を出して手に入れる場合、勿論純粋に作品を作った技術や努力に対する対価としてだけ代金を支払う場合もあるだろうが、多くの場合「芸術作品を買う」という行為においては、純粋に作品だけを買っているのではなく、その作品が持つバックグラウンド、作品が作られた意図、状況、そして作者の思想や人間性などまで含めて評価が下され、支払う対価が妥当か否か判断される場合が殆どだ。例えば、覆面芸術家・バンクシーの作品が高く評価されるのもそんな理由からだ。彼の作品が評価される理由は、作品に彼の訴えたいことが強く反映されているからであって、そのバックグラウンドがなければ確実に現在の評価は得られなかっただろう。もし今後、万が一彼がナチス信奉者、又は人種/民族差別主義者であるなどの事実が発覚したら、彼だけでなく彼の作品の評価も確実に下がるはずだ。
 それは絵や写真に限らず音楽や演劇でも、文筆家の作品・お笑いネタなどでも同様だろう。どんなに優れたお笑いネタであっても、そのネタをやるのが「性差別の何が悪いのか」「○○人は殺せ!」などと公言するような人物を含むコンビ・グループだったなら、多くの人は笑えないのではないか。作品と作家/作り手の人間性は分けて考えるのが妥当な場合もあれば、妥当でない場合もしばしばあるということだ。


 個人的にはこの新潮社の企画について、作品と作家/作り手の人間性を分けて考えるのが妥当なケースだとは思わない。しかし、作品と作家/作り手の人間性を分けて考えるのが妥当なケースである、という主張を全面的に否定することも出来ない。つまり、前段のような話だけでは「新潮社オワタ」とは言えない、というのが自分の考えだ。
 では何故タイトルを「新潮社の終焉」としたのか。それは前段のような話とこれから書くことの合わせ技で一本認定してもよいと考えるからだ。

 数日前にこんなツイートが話題になっていた。


 とある飲食店が、Googleマップに表示される自店へ高評価を投稿した客を対象に割引サービスをしている、という話である。つまり「高評価を金で買っている店がある」ということだ。また、10/2のNHK・クローズアップ現代+も「追跡! ネット通販 やらせレビュー」というテーマだった。NHKは他にも関連記事
も掲載している。


 これらは全て「やらせレビュー」「高評価を金で買う仕組み・行為」についての話で、どれもその倫理感の低さ・なさを指摘している。

 ここで、冒頭で紹介した新潮社の企画を思い出して欲しい。新潮社の企画のポイントは、
  • 百田尚樹の最新小説『夏の騎士』をほめちぎる読書感想文を募集
  • 百田尚樹を気持ちよくさせた20人に1万円分の図書カードを贈呈
である。つまり、1万円分の図書カードをエサに高評価レビューだけを募集している。これは高評価を金で買う行為、少なくともそれに準ずる行為とは言えそうだ。批判的なレビューは排除し、褒めちぎれ・ヨイショレビューを投稿しろ、抽選で金品を授与する、というのは「やらせレビュー」を助長する行為と言えるだろう。
 肯定的・否定的等内容を限定せずに、純粋な感想を募り、抽選で図書カードをプレゼントするという企画を催したなら、問題のある行為とは言えないが、対価をエサに高評価に限定した感想をSNS上で募るという行為は、問題はないとは決して言えない。当該ハッシュタグには対価目当ての高評価レビューが群がる仕組みで、SNSの特性上それが公に広がることになるからだ。しかも対象となる作品を書いたのは、あの百田である。それを出版社の公式アカウントで行っているのだから、これではもう

 新潮社の終焉

と言っても過言ではないのではないか。




追記:

 当該企画は「多くのご意見を受けて中止」らしい。昨今は違法な献金や不適切な金品を受け取っても、返せばOKという認識の政治家や企業経営者などが多いが、もし新潮社が「中止にしたのでOK」と思っているなら、そのような政治家や企業経営者を批判することは難しくなる。勿論新潮社が自社の出版物上でその手の批判を展開することは自由の範疇だろうが、批判の説得力は著しく低くなる。このままでは結局、当該企画が「新潮社の終焉」を意味するものだったことは変わらない。

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