このブログは自分の日誌のようなものだ。当初は毎日書くというルールはなかったが、始めて数か月毎日書いた結果、毎日書くことが当然となり、いつの間にか毎日書くことが自分のルールになった。ただこの数か月、言い換えればコロナ危機が生じて以来、仕事は半減してしまったので時間には以前よりも余裕があるのに、何度か「もう書くの止めようか」と考えることがあった。
何故そんな気分になるのかと言えば、この国、そして自治体のコロナ危機への対応が余りにも杜撰でいい加減、余計なことばかりして何もしない方が寧ろマシとすら思える状況が、危機に瀕して既に7ヶ月が経とうとしているのに、一向に改善しない、改善しないどころかその兆しすら見えないからだ。
ただ「もう書くの止めようか」と思う度に頭によぎるのは、5/11の投稿でも触れたスラムダンク安斎先生の「あきらめたら
そこで試合終了ですよ…?」という台詞や、7/13の投稿でも書いた、自分のような立場の人間が現状に絶望して得をするのは、いい加減なことを言い張っている人達、つまり今の日本政府やその周辺である、ということだ。
しかしそれにしても、現状は戦う敵が多過ぎる。本来はおかしなことばかり言っている/している政権とだけ戦えばよいはずなのだが、昨日の投稿でも書いたように、例えば大半のメディアは、直近の首相動静だけでも確認すれば、首相が○○日連続で休んでないなんて話は明らかに嘘だとすぐに分かるのに(首相動静(2020年8月):時事ドットコム)、副首相のそんな嘘を平気で無批判に垂れ流している。
また昨日の投稿で触れたダレノガレ明美さんや、
「たいして働いてないだろ」
— 乙武 洋匡 (@h_ototake) August 18, 2020
「休みたいなら辞職しろ」
「そのままずっと休んでろ」
この国でブラック企業がなくならない理由がよくわかった気がする…。
どんなに政治思想が相容れなくても、体調が悪いときに浴びせるべき言葉ではないかな。
首相静養 十分な休暇求める声https://t.co/Yz3Q8N32NM
こんなツイートをしている乙武さんのように、簡単に論点のすり替えや、いい加減な主張に騙される有権者などもおり、そのような人達とも戦わなければならない現状が広がっている。直近の世論調査での支持率は、軒並み30%台だが(世論調査、「危険水域」寸前に危機感 反転の道筋描けず―政府・与党:時事ドットコム)、逆に言えば、未だに3割もの人が、この一目でわかるようないい加減な政権を支持しているということでもある。
昨日の投稿と重複する話だが、自民党・税制調査会長の甘利は「(安倍首相には)ちょっと休んでもらいたい。責任感が強く、自分が休むことは罪だとの意識まで持っている」と言っている。責任感が強く休むことに罪の意識は感じるが、憲法の規定に反して国会を開かないことについては、罪の意識も責任感もない。その責任感というのは一体どんなものなのだろうか。責任という言葉は、6/17の投稿でも指摘したように、安倍自身もいい加減に濫用しているし、甘利のこの発言も加味して考えれば、最早責任/責任感という日本語の破壊とすら言っても過言ではない用い方だ。
麻生の話も全く幼稚である。首相が働いていることの根拠として示したのが、行った政策とその結果でなく、何日休まなかったかである点は、非常に旧来型の小学生染みている。最近は皆勤賞というのは弊害も多いと言われている。休むことが罪だと思っている者が首相なら、ブラック企業もブラック部活もパワハラも解消しないのも頷ける。なぜそういうことを指摘できる記者が、当該記者クラブには誰もいないのか。なぜ記者クラブ所属メディアには、他の部署にそんな政治部の異様さを批判指摘できる者が誰もいないのか。
こんなことを毎日毎日書いていれば、頭がおかしくなりそうだと感じたり、嫌気が差すのも当然ではないだろうか。投稿の冒頭で「(状況が)改善しないどころかその兆しすら見えない」と書いたが、寧ろ悪化しているように感じられることも多い。まるでカルト宗教と戦っているかのような気分にすらなる。戦っている相手のカルト宗教の規模が小さければ、「どうぞ内輪でお好きに」と、外部に悪影響を及ぼさない限り無視するという手もあるが、国という規模がカルト宗教化していると、そういうわけにもいかない。
今日のトップ画像には「Vanity」という文字を入れた。バニティと言うと、日本では化粧や化粧道具のイメージの方が強いかもしれないが、元来は、自分の能力や魅力を過度に信じること、実態を伴わないのに外面だけの飾ること、虚飾・虚栄、を意味する。また哲学の分野では、利己主義や傲慢、というニュアンスを表す(虚飾 - Wikipedia)。
自分はバブル期に少年期を過ごした。だからバッチリ恩恵を受けたワケではないものの、当時の浮かれた感じは覚えているし、友達の親や祖父母が、今では到底考え難いような高価なもの、例えば1万円前後のスケートボードやラジカセなどを、単なる子どもの友達である自分にも、息子に買い与えるついでにポンっと買ってくれる、程度の恩恵はあった。当時の日本ではジャパンアズナンバーワンなるフレーズがもてはやされた、ということについては8/5の投稿でも書いた。当時は日本人の殆どが「日本は世界2位の経済大国で、世界に冠たる先進国」であると信じて疑わず、ある意味でそれを誇りにしていた。
しかし、バブル当時の「日本は世界2位の経済大国で、世界に冠たる先進国」という認識は果たして妥当だっただろうか。今の日本の現状を見ていると、世界2位の経済力を手に入れた、という当時の認識は妥当だったかもしれないが、世界に冠たる先進国とはお世辞にも言えない状況になっており、というか、当時も決して先進国ではなかったのではないだろうか、と思えてならない。数年前までの中国同様に、当時経済的な豊かさを背景に、世界中でやりたい放題していた日本人はエコノミックアニマルと揶揄されもしたが(エコノミックアニマルとは - コトバンク)、その通りで「経済的な豊かさ」だけを手に入れたに過ぎなかったのではないか。つまり国の内情は先進国としての実態を伴っておらず、まさに虚飾・虚栄の国だったのが当時の日本で、その虚飾と虚栄が、経済が大きく陰っても尚残っているのが今の日本であり、つまり、戦後の日本は常に虚飾と虚栄の国だったのではないだろうか。
毎日ウンザリする程、そしてあまりにも幼稚な、指摘批判すべきことがあるのに、そんな政権が7年以上も続く、つまり有権者が容認し、そしてメディアも積極的に批判しない、という状況も、日本が、ガワだけで先進国の実態を伴わない、虚飾と虚栄の国であることを強く物語る要素だ。国外にはもうかなり前からそんな認識があるのに、内側にいる日本人だけが、高度経済からバブル期という過去の栄光にすがり虚飾を続けているというのが現状だろう。井の中の蛙大海を知らず、裸の王様、なんて表現が、今の日本にはお似合いだ。
トップ画像は、 Harmen Steenwijck - Vanitas - 虚飾 - Wikipedia を加工して使用した。