直近では6/13の投稿など、もう何度もこのブログで取り上げているAC:公共広告機構のCM「知らんぷりより、ちょっとの勇気」。日本人の殆どは、そのCMが言っているように「いじめを傍観してはならない」と教えられてきたはずだ。もっと言えば「いじめを傍観するのはいじめに加担するも同然」とすら教えられてきたのではないだろうか。
[AC CM]公共広告機構 知らんぷりよりちょっと勇気
だが日本人の多くは大人になるとそれを忘れる。不合理な仕打ちを誰かが受けていても「自分には関係ない」「触らぬ神に祟りなし」などと言い訳して無関心・無視を決め込む。しばしば日本人は親切で思いやりに溢れている、という自画自賛を聞くが、果たしてそんな国民性の一体どこが親切で思いやりがあると言えるだろう。
1892年ドイツ生まれで、第一次世界大戦には軍人として参加し、退役後は右派として左翼勢力の弾圧に加わり初期のナチを支持したが、その後牧師となると今度はナチの弾圧される立場となり、強制収容所にも送られたマルティン ニーメラーは(マルティン・ニーメラー - Wikipedia)、1946年1月の説教の中でこう述べている。
私には罪がある。なぜなら私は1933年になってもヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした
そしてこの話を元に作られたのが、10/4の投稿でも触れた、
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
という詩であり、その原文が今日のトップ画像である(彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia)。
10/6の投稿で触れた、自民党所属の足立区議会議員 白石 正輝が平然と同性愛蔑視を披露した件に関して、次の続報があった。
LGBT差別的発言の足立区議、謝罪拒否「不快と思っても別に良い」 - 毎日新聞
鹿浜昭議長と区議会自民党は6日、それぞれ白石氏に厳重注意をした。白石氏は「当事者が不快と思っても別に良い」と反発し、発言の撤回や謝罪をする意思はないという。
白石氏は毎日新聞の取材に対し「だから何。(発言は)人によって受け取り方が違う。私だって共産党の意見を聞いても全部不快だ」などと話した。
白石は朝日新聞の取材に対しても「LGBT(の権利)を法律で保護するのも反対だ」と述べている。つまり、同性愛者の権利を(少なくとも足立区では)認める必要はない、と言っているも同然である。これは憲法の定める基本的人権の尊重の無視であり、更に言えば、同性愛者には人権を認める必要はない、と言っているとも受け取れる。そうであれば、同性愛者は人ではないと言っていることになる恐れすら生じる。白石の発言が憲法や人道に反していることは明白である。
しかし毎日新聞の記事にはこうも書かれている。
鹿浜議長は、共産党区議団など3会派4議員から白石氏への厳重注意などを求められたという。「行き過ぎた発言なので注意したが、あとは本人の考え方。(白石氏に)謝罪や発言の撤回は求めなかった」と話した。
憲法や人道に反した発言にも関わらず、鹿浜議長は「あとは本人の考え方」で済ましているし、謝罪や発言の撤回も求めていない。調べて見ると、この鹿浜 昭も自民党の政治家だ。
白石や鹿浜のような政治家を選んでいることについて、足立区民はどのように考えているだろうか。「自分は彼らに投票していないから関係ない」「自分は投票自体をしていないので無関係だ」と思っているなら、それは大きな間違いだ。その態度や姿勢は、「いじめを傍観してはならない」「いじめを傍観するのはいじめに加担するも同然」などの教えと確実に矛盾する。自分が票を投じていないから彼らが区議に選ばれているという側面が確実にあるし、足立区の有権者である限り全くの無関係などあり得ない。静観は寧ろ彼らと同類であることの告白に等しい。
今はたまたま同性愛者の権利が軽んじられているが、次に標的にされるのは、自分の属性かもしれない。「情けは人の為ならず」とは、「他人に情けを掛けておけば、つまり思いやりの心を持って接していれば、それが巡り巡って自分にも良い報いとして返ってくる。だから積極的に他人に情けを掛けなさい」ということを示す慣用表現である(2019年11/21の投稿)。それはニーメラーが身をもって教えてくれている。
このような話は足立区議会・足立区民に限った話ではない。朝日新聞が10/5に、不法滞在者などを長期に拘束する日本の入国管理収容制度について、国連の作業部会(WG)が、「国際人権法に違反している」との意見書を日本政府に送った、と報じた。
入管の長期収容は「国際人権法違反」 国連部会が意見書:朝日新聞デジタル
日本の入管の非人道的行為はもう何年も前から問題視されているが、政府と与党に改善する様子は全く見られない。そんな政府と与党を、日本の有権者はもうかれこれ約8年も容認し続けているし、基本的に前安倍政権を引き継ぐ現菅政権の支持率は、10/5の投稿でも触れたように、発足後間もないということもあるが70%を超えている。つまり、日本の有権者は、入管の非人道的行為を容認、若しくは肯定していると言っても過言ではない。日本の入管の問題は決して入管だけの問題ではなく、それを改善しようとしない政府と与党、そしてその政府と与党を容認している有権者の問題だ。言い換えば、日本人の多くが国際人権法違反に加担している、とも言える。
足立区議 白石の同性愛者蔑視は、国会議員 杉田のそれと同種である、ということは10/5の投稿でも触れた。杉田は2018年の同性愛者蔑視以外にも差別や中傷を繰り返しているが、自民は党として、口頭注意しかしない、つまり実質的には処分していないこともそこで書いた。杉田の同性愛者蔑視の際にも、白石に対する鹿浜議長の発言と同様に、自民党幹事長の二階が「右から左まで各方面の人が集まって自民党は成り立っている。(政治的立場での)そういう発言だと理解したい」「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」などと述べ、問題視しない考えを示していた(杉田水脈氏の寄稿、二階幹事長「人それぞれ人生観ある」:朝日新聞デジタル)。
つまり、自民党は2018年の杉田による同性愛者蔑視から何も変わっていない。権利や憲法を軽んじる姿勢はそのままである。そんな党とその党による政府を支持するということは、権利や憲法の軽視/無視を容認、または肯定するということであり、今はその標的になっていなくても、いずれ自分の属性が標的にされる恐れも受け入れる、ということでもある。
そもそも法治国家において憲法や法律を政治家が軽んじるなんてこと自体が異様なのだが、それを有権者が容認していることは更に輪をかけて異様な状況だ。そして自分の属性が標的になってからその異様さに気付いても遅い、ということはニーメラーが身をもって教えてくれている。再確認だが「情けは人の為ならず」である。