スキップしてメイン コンテンツに移動
 

女性の性的な部分を愛でられない人は病んでいるのか?

女性の美しさを素直に愛でることができない社会も病んでると思うの…」というツイートがタイムラインに流れてきた。そうとしか書かれていないので、何についてそう言っているのかは決めつけるのは早計かもしれない。だがタイミング的に、そして「愛でることができない社会”も”」と言っていることから、恐らく、9/17の投稿9/22の投稿で取り上げた、千葉県警が子ども向けの啓蒙動画に用いたVTuberの件に関連したツイートなんだろう、と推測するのは自然なことだ。

 以前に、ベジタリアン/ビーガンについて「『菜食であることはメンタルヘルスにもよい』は本当か」という投稿を書いたことがある。その冒頭で、動物愛護的な観点を背景に菜食主義やビーガンになる人の価値基準に自分は全く賛同できない、と書いたが、動物愛護的な観点を背景に菜食主義者/ビーガンになったかどうかは別として、そもそも自分は菜食主義やビーガンにあまりよい印象がない。それは、これまで出会った菜食主義、特にビーガンの人達の中に、肉を食べる行為を野蛮だと言わんばかりの人、言わないまでも見下しているのがにじみ出てている人が少なくなかったこと、こちらが拒否反応を示してもビーガニズムについて説いてくるタイプの人が少なくなかったことによる。また、SNS等でそのようなタイプが悪目立ちしているのもその理由だろう。
 勿論、たまたま自分が出合った人達の傾向が偏っていただけかもしれないから、それが世の中の菜食主義/ビーガン全てに当てはまる傾向だと言うつもりはない。他人は他人、自分は自分ということを踏まえ、肉食を卑下しない、肉食も尊重する人が大多数なのかもしれない。しかし、少なからず菜食至上主義やビーガニズム至上主義とでも言うべき人達がいることも事実で、そのような人達の所為で、菜食主義やビーガンにあまりよい印象が持てない。端的に言えば、押し付けがましいのが嫌いだ。


 冒頭で取り上げたツイートも、まさにそれと同じだ。女性の美しさを素直に愛でる、と言って、水着姿、しかも露出の激しいタイプの水着を着用したキャラクター、しかも乳首が浮いているのも明確に描かれていて、明らかに性的要素を強調したタイプのイラストを添えている。で、それを愛でられない社会は病んでいると言う。
 この人が愛でたいのは、女性の美しさではなく女性の性的な側面ではないのか?という印象が拭えない。このツイートに添えられていたのが、しっかりと衣服を着用した女性のイラストであれば、純粋で全般的な女性の美しさを念頭に置いた主張とも解釈できるが、これではこの人は、女性を性的に愛でたいと言っているとしか思えない。
 勿論自分にだって女性の性的な部分を見たい欲求はあるし、女性の裸に美しさも感じる。でも、女性の性的な部分を見たいと思わない人や、女性の裸に美しさを感じない人もいて当然だ。女性の性的な部分を見たいと思わない人、女性の裸に美しさを感じない人は病んでいるとは思わない。そう、このツイートもまた菜食至上主義、ビーガニズム至上主義の人と同様に、女性の性的な部分を愛でろ、愛でない奴は病んでいる、と言って、女性の性的な部分を愛でることを強要しているように見える。端的に言えば押し付けがましい。この種の主張は押し付けがましいから煙たがられるのだ。

 つまり、「女性の美しさを素直に愛でることができない社会も病んでると思うの…」という主張はかなり的外れだ。愛でたい人は愛でればよいし、愛でたくない人は愛でなくてよい。社会と分母を大きくすることでカモフラージュしているが、愛でられない人は病んでいる、と言っており、はっきり言ってかなり極端な主張で、蔑視や偏見の塊とすら言えそうだ。
 イスラム圏や中国のように、極端に性的表現がタブー視されている社会に関してこのようなことを言っているのならまだしも、このツイートは十中八九日本について言っている。日本程性的表現にフランク、というか無頓着とも言える社会は、他にないのではないか。そんな状況でこんなことを言っているのだから、的外れとしか言いようがない。


 赤松 健という、少年誌向けのお色気マンガで有名になった漫画家がこんなツイートをしていた。

 世の中的には、どうも未成年者に一切エロ要素を見せないようにしよう、という風潮があるようで、まず00年代に入ってテレビから女性の裸が消えた。個人的にはやり過ぎと思うが、テレビは公共の電波を専有的に使って誰でも見られる放送を提供しているのだから、性的な表現は極力抑えよう、という考え方は分からないでもない。
 未成年者に一切エロ要素を見せないようにしよう、という風潮は少年誌にも及んでいるように思う。しかしその反動なのか、青年誌ではエロ要素を多分に含む作品が増えているようにも思う。思春期の男が女の裸を見たいと思うのはごく自然な欲求で、その欲求を過度に抑え込もうとするのは間違いだと考えるが、他方でまだ分別が付いているとは言えない年齢の男に、スカートめくりのような行為などを女性は嫌がる素振りをするが本当はエッチなことが好き、みたいな認識を与えるのはまずい、という風にも思う。
 少年誌にしろ青年誌にしろ、年齢制限なく誰でも簡単に買えるので注意は必要なのだろうが、少年誌や青年誌は買わないと見られない、つまり主体的に見ようとしなければ見られないものでもある。テレビよりは各家庭の方針を反映させやすく、見せたくない保護者は買わせない、そうは思わない保護者は制限しない、ということが可能だ。

 お色気マンガを少年誌から一切排除するべきだ、という風潮の強化にも繋がりかねない、お色気マンガ家として有名な赤松による的外れな主張は、全く看過できない。赤松が引用している大阪府のガイドラインは、女性の性的な側面などを強調して安易に客寄せパンダにするな、女性に限らず男性でも同じだ、全ての市民を対象とした公的な啓蒙・広報には節度ある表現を用いましょうと言っているだけだ。表現の自由とは全く別のことなのに、女性を「人格を持った多様な姿で描くように」に描くことなど無理、表現の自由的に問題がある、なんて言っている。

 もっと分かりやすく言えば、全ての人を対象にした公的キャンペーンには、ちゃんと服を着せたキャラクターを使え、お色気要素を強調するな、という、たったそれだけのことが分からないんだろうか。電車に乗る時、町を歩く時はちゃんと服を着ましょう、と言っているのと同じだ。誰も女性の性的な部分を強調して描くことは一切認められない、とは言ってないし、その種のものを一切愛好してはいけない、とも言ってない。単に、その種の表現は万人向けではないよね、だから公的なキャンペーンには向かないよね、と言っているだけだ。表現の自由とは何の関係もないし、問題があるとも思えない。
 赤松は、お色気マンガが公的キャンペーンにそぐわない、というのは差別だ!と言いたいのかもしれないが、それはかなり的外れな主張であり、お色気要素を持つマンガやアニメに対するネガティブキャンペーンにもなりかねない。ちょっと乱暴だが、赤松や同種の主張をしている人達には、もう黙っていて欲しい。


このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。