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大きな絵全体を見る為にはもう少し下がった方がいい

 英語の言い回しに Step back to look at the big picture. というのがある。大きな絵全体を見る為にはもう少し下がった方がいい、のような意味で、小さいことに捉われ過ぎて全体が見えていない、のようなニュアンスが含まれている。日本語で一言で言うなら、大局観を持て、近視眼的になるな、などに当たるだろう。

 京王線で10/31に起きた事件を見て、いくつかのことが頭に浮かんできたのだが、それには共通点があった。それは場当たり的とか、そのばしのぎとか、大局観がないなどで、臭い物に蓋をする、都合の悪いことから目を背けがちな現代日本の性質が幾重にも重なっているようにも思えた。

【動画あり】「人を殺して死刑になりたかった」「小田急事件を参考に」…京王線に刃物男、殺人未遂容疑で逮捕 17人けが、1人意識不明の重体:東京新聞 TOKYO Web

 まず最初に感じたのは、この事件はホームドアの弊害を露呈したのではないか?という懸念だった。別の記事「京王線乗務員ら判断でドア開けず 2メートル手前停車、転落防止:東京新聞 TOKYO Web」に、

京王線の乗客刺傷事件で、京王電鉄は1日、特急は国領駅の停止位置の約2メートル手前で停車しており、車両とホームの隙間からの転落を防止するために乗務員らが車両ドアやホームドアを開けない判断をしたと明らかにした。  手前で止まったのは、運転士が緊急停車させる際に非常用ドアコックが使用され、停止位置を調整するための加速ができなくなったことが原因としている。

とある。それで乗客が窓の狭い開口部分からホームへ脱出している。
 また、事件が発生して電車が停車した国領駅の1つ前の駅である布田駅のホームドアが、ホームと線路を完全に隔てる背の高いタイプであることに触れ、国領駅がそのタイプだったら車外に逃げられなかったのでは、という指摘がツイッター上では複数なされている。

 最初の東京新聞の記事が掲載している写真を見ると、ホームドアと電車のドアがずれている。健常者は非常コックでドアを開けて逃げたり、それを知らなくても窓から逃げることができる。だが、ホームドアと電車のドアがずれていると、車椅子の人は両方が開いていても逃げ遅れてしまう恐れが非常に高い。背の高いタイプのホームドアだと、健常者にも逃げ遅れが生じるかもしれない。
 今回は、というか近年鉄道を狙った同種の事件同様と言うべきか、今回も火が放たれた。車両のドアが開かなかったり、密閉式ホームドアが妨げになったりしたら、最悪逃げ遅れた人が蒸し焼きにされる恐れもあったわけで、それを想像したら、1951年に桜木町駅で起きた事故のことを思い出した。桜木町事故は高架の上で車両火災が発生した事案だ。乗客はドアを自力で開けることができず、また隣の車両へ移ることも、窓から脱出することもできなかったために車両に閉じ込められた。事故発生場所が高架の上だった為に消火/救助が遅れ、死者106人、負傷者92人の被害を出した。

 これまでにも、ホームドア設置推進に対する違和を何度かこのブログに書いてきた。ホームドアの必要性を説く主張として、目の不自由な人や、ベビーカー、車椅子などがホームの傾斜によって、線路に転落してしまう事故、混雑したホーム上での列車との接触事故を防ぐこと、ホームから線路へ故意に降りる人を減らすこと、飛び込み自殺を減らすことなどが挙げられるが、ベビーカーや車椅子の人などが車両から避難する大きな妨げにもなるし、健常者のスムーズな避難も妨げる恐れがあれば、その説得力は減るのではないだろうか。

 2017年8/15の投稿では、ホームドアの設置を全駅で行うべきとか、全国的に線路への侵入を防ぐ柵を設置すべきという主張に対する違和を書いたが、安全を理由にホームドアや線路に柵や壁を設けるということは、視点を変えれば、車両内で問題が発生した際の避難の妨げになるものを設置するということでもある。
 その投稿や、2019年11/21の投稿でも書いたが、ホームドアがなくても、周りの乗客が「情けは人の為ならず」の精神を発揮し、無関心・見て見ぬふりを止めて、視覚障害者や車椅子利用者、ベビーカーを使う人などへの思いやり・配慮を発揮することが当然の社会になれば、駅のホームにおける事故の多くは防げるはずだ。
 また、9月に共産党の山添 拓がおよそ1年も前に所謂勝手踏切を渡ったとして書類送検されたが、そうやって立小便すら罪に問うみたいな姿勢で、一切線路内に立ち入るな、踏切以外を絶対に渡るな、なんてことをやれば、生活上の不便を無駄に強いられる人が多く出てしまう。勿論節度ある行動を求めるということも大事ではあるが、ホームドアの件も、線路への立ち入りに関する件も、自分には場当たり的、大局観のない話にしか思えない。



 京王線の事件の容疑者は、「仕事で失敗した。友人関係がうまくいかなかった」、「ハロウィーンで電車内に人がたくさんいるから、大量殺人できると思った」、「人を殺して死刑になりたかった。誰でもよかった」などと話しているそうだ。

 このような凶行が起きると必ず誰かが「死にたいなら勝手に死ね」みたいなことを言い始める。勿論自分にだってそう思う部分はあるが、それではほとんど何も解決しないことは明らかだ。だから何度も頻繁にこのような事件が起きてしまっているんだろう。犯人を変人扱いするだけでは何も変わらない
 この種の事件を防ぐ為に、鉄道も飛行機のように持ち込みの検査をやるべきだとか、ガソリン等の液体や凶器になる刃物の携行などを、もっと厳しく取り締まるべきだなんて声が上がるが、鉄道にだけ対策をしても登戸通り魔事件のようなケースは防げないし、京都アニメーションの事件を理由にガソリンの携行缶への給油を禁止しても、2019年7/28の投稿でも書いたように、自動車に給油してそこから抜き取れるのであまり意味がない。

刃物に関しても、大工などの現場で働く職人は携行せざるを得ない。それと取り締まりの両立には無理がある。直接的な対策に全く意味はないとは言わない。しかしそれらはどうもその場しのぎ、場当たり的で大局観に欠けるように思えてしまう。

 なぜこのような事件が頻繁に起きるのか。非正規雇用の拡大、ストレスフルな社会、自己責任論に染まる社会が、事件に繋がっているのではないか。○○したら、できなかったらおしまいという雰囲気を醸す親や学校や教師、友達などに囲まれていると、そう刷り込まれる状況もあるし、そもそも社会全体で、あちらこちらから主流派から脱落したら終わり感を出している、それが日本の病ではないのか。そして、 人を嘲笑し下に見たがる人の多い社会の怖さ、そんなことも感じずにいられない。
 失敗してもどうにかなる、という認識が広くあれば、このような絶望感を背景にした事件をもっと減らせるだろう。失敗した人、追い込まれた人を社会が見捨てるから、生きていることにメリットを見出せず、死んだ方が楽だ、という発想になってしまうから、このような事件が頻繁に起きているんだろう

 この手の事件は、昭和の頃にはあまりなかった、と昭和最後期生まれだが感じている。だが、昭和最後期頃は通り魔の話が今よりも多かった。これは現代版通り魔かもしれない。 ただ、昭和だろうが令和だろうが、このような人が多く出てきてしまう、というのは、それだけでもう社会の未熟さ、社会全体としての敗北なんだろう。


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