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印象操作に勤しむ者によって行われた「印象操作」のレッテル貼り



 「総務省が「過疎」という表現の代替語を検討している」という話が話題になっている(共同通信「「過疎」の代替語検討へ、総務省 マイナス印象と」)。さわりを説明すると、人口減少地域には豊かな自然等都市部にはない魅力もあり、「過疎」という表現にはマイナスのイメージがあるから「実態に合わない」として別の表現を検討しているそうだ。ハッキリいってかなり筋が悪い。
 コトバンク/デジタル大辞泉によれば、過疎とは、
 極度にまばらなこと。特に、ある地域の人口が他に流出して少なすぎること。「過疎の村」「過疎化」⇔過密。
とある。過疎とは、今では概ね「人口が減少してまばらな状況」、過密の対義語として用いられている。つまり過疎には元来ネガティブなニュアンスなどない。
 なので、まず、「実態に合わない」という話自体が明らかに誤りだ。人口減少=過疎なので確実に実態に即している。そしてそもそも人口減少という状況自体がネガティブな印象を抱かれているのだから、というか政府・自治体も、これまでも今でも「人口の維持は重要だ」と、そのネガティブな印象を強調してきた/しているのだから、「過疎」を別のポジティブなイメージの単語に置き換えたところで、結局その表現は「状況を皮肉っている」と受け止められるようになるだろう。つまり人口減少=ネガティブな状況という認識が改められない限り、表現を変えたところで「過疎」が別の表現に変わるだけで、ポジティブな認識は生まれない。総務省が検討しているのは本末転倒の思考方法と言わざるを得ない。


 この件については、自分とは別の文脈で否定的な考え方を持っている人もいるようだが、J-Castニュース「「過疎」はマイナス印象なので別の言葉に... 総務省「検討」に「誤魔化しやめて」」、AbemaTIMES「「過疎」の代替語検討に批判の声「実態は変わらない」「現実隠してるだけ」」などが伝えているように、理由はどうであれ否定的な認識を持っている人の方が多そうだ。
 自分はこれまでに、この件に対する見解と同じ方向性の、「ハーフからダブル/ミックスへの言い換え」や「支那人は蔑称か?」、「障害者と障碍者」などに関する持論をこのブログやSNS等で主張してきた。
 ハーフという表現は元来異なる人種/国籍/民族の両親を持つ者という意味合いであり、ハーフという表現は必ずしも蔑称でない。つまりダブルやミックスに置き換えたところで、意識的/無意識的に蔑称として用いる人はハーフ同様にダブル/ミックスを蔑称のように使うだろう。それは支那という表現も同様で、支那は英語のChina同様に、中国の古い国号「秦」に由来する、中国を表す表現だ。つまり支那が差別的な表現なのではなく、差別的な意味合いを込めて支那という表現を使う人がいるというのが実情で、支那人が絶対的な差別表現で使うべきでないのなら、言葉の成り立ちが同じChineseだって使うべきでないということになるだろう。障碍者という表現も、障害の「害」がネガティブな意味の文字だとして、戦前にスタンダードな表現だったとされる障「碍」者が2000年代に再び使われ始めたそうだ。しかし今でも障害という言葉は広く使われているし、「碍」も妨げる/邪魔するという意味の文字で、決してポジティブなニュアンスの文字ではない。
 確かに「過疎」という表現には確実にネガティブな側面がある。しかし前述の例を勘案すれば、端的に言って、字面だけを変えただけでは何かが大きく変わるとは思えない。タブーを無用に増やしてしまうという側面を考えれば、寧ろその言い換えによって、用いるべきでない表現、つまり蔑称を余計に作り出すという蛇足のようにすら思える。


 以前から似たような表現の置き換え、というかすり替えはしばしばあったが、昨今、現政府は頻繁にそんな検討をしているという話が聞こえてくる。
 直近で言えば、
 根本匠厚生労働相が、厚労省の職員に「非正規労働者」という言葉を使わないよう指示していた
と東京新聞が6/20に報じた。 この記事は何故か東京新聞の元記事がWeb上では見当たらなかったが、
などがその件に触れている。また、



と、東京新聞の紙面のスクリーンショットをツイートしている人もいる。東京新聞労働組合なるツイッターアカウントも


とツイートしている。

 また、前述のAbemaTIMES「「過疎」の代替語検討に批判の声「実態は変わらない」「現実隠してるだけ」」でも触れているように、
 就職氷河期世代を「人生再設計第一世代」と位置付けて支援するという方針
が打ち出された(AbemaTIMES「就職氷河期世代が「人生再設計第一世代」に名称変更、SNSでは「言葉遊びか!?」の声も」)が、この方針に対しても否定的な声の方が明らかに多かった。毎日新聞は2018年11/28に「安倍政権の言い換え体質」という特集記事を掲載しており、次の画像はその記事で使用されている、現政権の主な言い換えの例をまとめたものだ。


 挙げられた例の中には、ややこじつけ染みたものも含まれているが、概ね妥当性があるとは言い難い「言い換え」が挙げられており、その多くが政府に都合よく印象を捻じ曲げる意図があるように思える。
 昨日(7/3)、日本記者クラブで開かれた各党首による討論会の中で、記者クラブ側から該当する場合に挙手を求められた質問の、「原発の新増設を認めない」「選択的夫婦別姓を認める」の2項目で、自民党の総裁として出席した安倍首相のみが手を挙げなかった。これらの質問について安倍氏は
 政策的な議論をしなければならない。政治はイエスかノーかではない。今の段階で答えられなくても直ちにノーではない。印象操作をするのはやめてほしい
と述べた(毎日新聞「首相「イエスかノーかは印象操作」 党首討論で挙手せず 手法に疑問」) 。印象操作という表現は、森友学園問題前後から安倍氏が好んで用いる表現なのだが、様々な言い換えによって印象操作を積極的にしてきた政府の長が、記者クラブに「印象操作」するなとは一体どの口で言っているのか
 この件については、映画監督/ジャーナリストの想田 和弘さんのツッコミが秀逸である。


 各分野の政策に関して基本姿勢を問うことは「印象操作」でもなんでもない。基本的な姿勢すら示せない政治家が果たして誠実と言えるだろうか。更に言えば、これまで充分な議論も行わずに強行な採決を繰り返し、今年の後半国会では頑なに予算委員会での審議を拒み続けてきた党の総裁が一体どの口で言っているのだろうか。

 私たちが住んでいる国のトップが果たしてこんな詭弁に塗れた人物で良いのだろうか。昨日の投稿の結論とも重なるが、
 日本では、首相や政府がこのような強引な言い逃れを繰り返していることは、当然諸外国にも確実に知れている。普通選挙という民主的な制度があるにもかかわらず、そんな首相や政府をいつまでも信任し続けていれば、「日本の民度はその程度」としか思われなくなる。というか寧ろ既にそんな風潮になっている事が、今回のG20に如実に反映されていた。



 前述の党首討論の様子は記者クラブの属するいくつかのメディアによって公開されている。



 2週間後には参院選が控えているが、投票をしないのは判断を避けることでなく、消極的に多数派へ賛同するのと同義だ。
 日本には、若者に限らず投票しても何も変わらないと思っている人がかなりいるようだが、政治家らは票を得て議員にならなければ収入を得られないので、票を集めることも彼らの仕事の内であり、投票しない人達に向けた政策よりも投票してくれる人向けの政策を重視する傾向が確実にある。つまり投票しなければ絶対に何も変わらないが、各自が投票することで自分の属する層(年齢/性別/社会的地位等)の投票率が上がれば、その層からの得票を目当てにした政策を掲げる政治家が必ず出てくるだろう。つまり大事なのは、よく分からなかろうが兎に角投票して自分の属する層の投票率を上げることだ。
 この党首討論の動画はおよそ125分と長い映画1本分程度の長さがあるが、しかし、それはTVのバラエティー特番と同じくらいの長さでもある。1.5倍速再生でも十分理解はできるので、それなら約80分で見終えられる。国の行く末がかかっているのではなく、自分の将来がかかっていると考えれば、風呂に入りながらでも通勤しながらでも、数回に分けてでも、音声だけでも、80分を割くだけの価値は十分にあるのではないだろうか。

 但し、「自分の人生はどうでもいい、自分の子どもや孫の将来はどうでもいい」と思う人には80分を割くだけの価値はないかもしれない。

 同日行われたTBS News23での党首討論も同じぐらい注目すべきだろう。

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