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「真摯な受け止め」の陳腐化・言い逃れの為の常套句化


 同じ言葉・表現であっても時と場合によってそのニュアンスは変化する。今では一般的になったと言っても過言ではない表現「意識高い系」などはその典型的な例だ。これに関してはWikipediaでの解説がとても詳しい。「意識高い系」の下敷き・前提となる「意識の高い若者」などの表現は、「能力が高く、知識も豊富な優秀な若者」のようなニュアンスの肯定的な表現として用いられていた。しかし、そのタイプの者の中には自己顕示欲が高く、実際よりも自分を大きく見せようとする者、つまり去勢を貼りがちな者も紛れており、というか決して少なくなく、中には自分の知識や能力ではなく肩書や人脈でそれを演出しようとする者もおり、そのような人を揶揄する否定的な意味で用いられ始めたのが、「意識高い系」というネットスラング発祥の表現である。
 しかし昨今は、元々の「意識の高い若者(若者に限定しない場合も)」という肯定的なニュアンスで「意識高い系」が用いられている場面にしばしば遭遇する。「意識高い系」という表現はネットスラング発祥の新語なので、どちらの意味で用いるのが絶対的に正しいということはないし、どんな経緯で肯定的な意味で用いられ始めたのか、実のところは定かでないが、恐らくそれこそ「意識高い系」の人が、本来は否定的なニュアンスであるのに知ったかぶりをして、字面通りの意味で誤用?し始めたのがその始まりのように思う。「意識高い系」を肯定的なニュアンスで用いているのは、ネットスラングに明るくなさそうな年配者か、若しくは「意識高い系」という表現が使われ始めた2010年前後にはまだ幼かった現在10代未満の若年層に多く見られる。


 ハフポスト/朝日新聞は「吉本興業とアミューズに是正勧告 上限超える長時間労働」という記事を4/16に掲載した。それら2つの芸能事務所が、労使協定で定めた上限を超える長時間労働をさせた、などの理由で労働基準監督署から是正勧告を受けたという内容だ。2018年10月に、月に1日も休まず働いた従業員がいたとして是正勧告を受けたアミューズは、
 真摯に受け止めている。渋谷労働基準監督署のアドバイスをいただきながら、対策を早急に検討実施し、働き方改革全般の対策を進めている
とコメントしたそうだ。
 コトバンクによると、真摯に受け止めるの「真摯」とは、まじめ、熱心、ひたむき、一所懸命に取り組むさま、とある。 つまり是正勧告を真摯に受け止めるとは、「甘んじて受け止め、最大限改善に努める」のようなニュアンスの表現だろう。しかし、ある大物政治家やその側近たちが「真摯に受け止める」という表現を連発し、しかも実際には具体的に何もせず、結果的に「真摯に受け止める(けど何もしない、何か具体的な対処をするとは言ってない)」のような状況が続いている為、個人的には「真摯に受け止める」は肯定的なニュアンスの「意識の高い若者」ではなく、否定的な意味の「意識高い系」のようなニュアンスになっているように思う。つまり「真摯な受け止め」は、今では「転じてー」のニュアンスの方が強くなってしまっている、反省の姿勢を示す場合に相応しいとは言えない表現になっていると感じる。
 アミューズが実際にどの程度厳粛に是正勧告を受け止めたのかは分からないが、記事によれば、2013年8月にも同種の勧告を受けた上での再勧告なのだそうで、アミューズも「真摯に受け止める(けど、何か具体的な対処をするとは言っていない)」が本音なのかも…と邪推してしまう。
 因みに「真摯に受け止める(前述同様なので略)」のようにネガティブなニュアンスを加えてしまったその大物政治家(2019年3/2の投稿)は、沖縄基地問題について「できることは全て行う」と発言した際に、「できないことはやらない」「できることしかやらない」と言っているのではないか、と揶揄されてしまうような人間で、沖縄基地問題の解決について県民の意向を汲むことに消極的な姿勢の人物だ(2017年7/10の投稿)。彼はそう言われても尚、2018年9月の県知事選・2019.2月の県民投票で沖縄県民が示した「普天間基地の辺野古移設反対」という明確な意向を無視し、移設工事の強行を止めない人物である(2019年3/4の投稿)。しかも彼は県民投票の結果を受けて「県民投票の結果は真摯に受け止めながら、一つ一つ負担軽減に向けて結果を出していきたい」と述べ、移設反対を掲げて玉城知事が当選した知事選後には「(沖縄)県民の気持ちに寄り添いながら、基地負担軽減に向け一つ一つ着実に結果を出す」と述べている。つまり、
 「真摯に受け止める」という表現は、慣用表現として「勘案する素振りを見せながら無視する」単に「無視する」、転じて「二枚舌を使う」という意味を持つ
と言っても過言ではない状況を作り出したのは、彼の口癖を借りれば「まさに、いわば、安倍晋三本人なのでございます」と断言しても問題ないだろう。


 政治家のいい加減な言葉・表現はこれに留まらず、昨今何かにつけて「誤解を招いた」という表現を用いて責任逃れに終始する者が少なくない。少なくないどころか不適切な発言・不祥事を起こした政治家・役人・企業の常套句になっている。
 「誤解を招いた」とは、「自分には悪気はなかったが受け止めた方が勝手に誤解した」というニュアンスで解釈することも出来る。しかしそう指摘すれば「誤解を招いた」として言い逃れようとする者は「そんな意図はなく、それも誤解だ」と言い出しそうだ。つまり「誤解を招いた」とは、殆ど中身のない体裁を繕うだけの為の表現に成り下がっているとも言えそうだ。
 元交際相手とされる女性から準強制性交の疑いで告訴され、先日自民党を離党した田畑衆院議員が同容疑で書類送検されたそうだが、ハフポスト/朝日新聞の記事「田畑毅氏を準強制性交容疑で書類送検へ 前自民衆院議員」によると、田畑氏はわいせつ行為に及んだことは認めているものの「犯罪にあたる行為だとは思っていなかった」と主張しているそうだ。 昨今「犯罪だとは思っていなかった」という表現は、特殊詐欺で捕まる末端の受け子、暴行容疑で逮捕された容疑者、田畑氏のような性犯罪の容疑者、あおり運転の容疑者、著作権法違反・違法アップロードでの逮捕者など、割合広範囲に用いられる見解だろう。
 個人的には「犯罪にあたる行為だと思っていなかった」という見解を示すことがこれ程蔓延している原因は、政治家らが何かにつけて「誤解を招いた」とし、実際に、役職を辞しても議員自体は辞めずに済むような責任逃れが横行していることもその一つであるように思う。両者に共通しているのは「悪い事をしているつもりはなかった」という認識を強調している点だ。悪い事をしているつもりがあろうがなかろうが、対象が受けた被害に一切違いは生じない。悪気がなかっただけで責任が軽くなるのなら、誰もがそう言い逃れようとして当然だろう。
 更に言えば、立法府に属する人間・つまり国会議員、そして地方・中央に関わらず議員を目指すことが前提である政治家は、厳密な意味では法律家ではないが、法律に関する生業であることには違いないし、法とは文章表現・言語表現で示されているもので、政治家とは文章表現・言語表現を生業にしている稼業とも言えるだろう。そんな言語表現のプロである政治家が「誤解を招く」ような表現をすること自体が政治家としての資質を欠く行為だし、田畑氏のように「犯罪にあたる行為」を認識できていないというのは、法律のプロが法を正しく認識していないという事でもあり言語同断と言わざるを得ない。


 政治家らの出来の悪い言い逃れの悪影響は役人にも及んでいる。日報の隠蔽や公文書の改ざん、障害者雇用の水増し、裁量労働制・入管難民法改正案にまつわるデータの捏造、勤労統計不正に端を発する複数の統計に関する不正の発覚等、中央の行政を見ただけでもそれが分かる。そしてそれは中央に留まらず地方にも及んでいると言えそうだ。
 埼玉県吉川市の障がい福祉課の職員が、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者が文字盤でコミュニケーションを試みた際に「時間稼ぎですか?」などと発言したことが、BuzzFeed Japanの記事「ALSの患者に「時間稼ぎですか?」 文字盤コミュニケーション中、市役所職員の発言に抗議」で明らかになった。この事実・記事は大きな反響を呼び、記事が掲載された翌日の4/17に中原 恵人吉川市長は謝罪の文書を患者に送付したそうで、4/19にはその謝罪コメントをホームページで公開した。BuzzFeed Japanも即座にこれを記事化しているのだが、その謝罪コメントの内容も酷く、恥の上塗りとしか言いようがない。
 謝罪コメントや当該記事によると「時間稼ぎですか?」という職員の発言は、
 御本人(患者)に対して発言した意図は全くないとのことでありますが、そこに至るまでの経緯や当人の意図は別としまして、不適切な表現であり高田様(患者)をはじめ関係者の皆様に大変御不快な思いをさせてしまう結果となってしまいました
ということらしい。つまり前段で触れた常套句「誤解を招いた」表現だったと言いたいのだろう。しかし、誤解であるならば本来どんな意図で発した、誰に向けた発言だったのかの説明があって然るべきなのに、当該謝罪コメントにはそれが一切ない。つまり「ごめんなさい」とは言っているものの、何が悪かったのかについてはよく分かっていない、というか都合が悪いから知らんぷりして、ただただ「ごめんさない」と言っているだけ、厳しく言えば「謝ればいいんだろ?じゃあ謝ってやるよ(笑)」というニュアンスにすら見えてくる。優しく言っても体裁を取り繕っているに過ぎないとしか言えない。
 ハッキリ言って、2017年に発覚した小田原市職員が生活保護受給者を悪者と決めつけたような対応をしていた件、所謂小田原ジャンパー事件(職員が保護なめんなという文言を入れたジャンパーを作成し着用していたことに由来する)と同じことが繰り返され、しかもそれを「誤解を招いた」で済まそうとしているという、なんとも残念過ぎる話だ。


 理解に苦しむ言い逃れというのはメディアにも及んでいるのではないか。例えば、ピエール瀧さんのコカイン使用逮捕に関連した過剰な自粛に対するアンチテーゼで行われたネット放送を、フジテレビ・バイキングが「売名行為」などとした件(3/31の投稿)も相応の批判を受けたが、 番組側は「真摯に受け止めております。正当な論評の範囲と思っております」などとしたそうだ(in a family way「バイキングからまさかのゼロ回答です」)。 ここでも「真摯な受け止め」という表現が用いられているのがとても興味深い。そしてこの手の話はフジテレビやバイキングに限った話でもない。
 4/19に池袋で乗用車が暴走し自転車に乗っていた親子2人が死亡、8人がけがをするという事故が発生し(朝日新聞の記事)、この事故は最近多い高齢者ドライバーによるペダルの踏み間違えが原因とみられている。この件で当該高齢者ドライバーは自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)容疑で事情を聴かれているそうだが、警視庁は「証拠隠滅の恐れがないと判断し、男性を逮捕せず任意で捜査」を進めているそうだ(共同通信の記事)。
 この件に関してメディア各社は、当該高齢者ドライバーの男性に、実名にさん付け、場合によっては実名もなく単に男性として報じている。この報道各社の方針についてSNS上などで疑問が呈されているが、ハフポストの記事「池袋の母娘の死亡事故、メディアが「容疑者」と報じない理由とは?」によると、メディア各社は
 容疑者という呼称は、逮捕や指名手配された場合に使用される
という基準に基づいて「容疑者」という呼称を用いていないのだそうだ。
 逮捕=罰とか、逮捕=犯罪者決定というような風潮には、少なからず自分も疑問を感じており、この事故では2人の犠牲者を出してはいるものの、当該男性が逃亡・証拠隠滅の恐れがないのならば逮捕する必要もないのかもしれないとも思う。しかし、逮捕するか否かは警察や検察の判断によるもので、逮捕されてもされなくても容疑がかけられているということには違いない。つまり、逮捕されるか否かで呼称を変えるというのは、逆に逮捕=犯罪者決定、逮捕されない=それ程深刻な罪ではない事が確定的、のような誤解を生みかねないとも思える。
 また、メディア各社はタレントや有名人が逮捕・送検されると、軒並み容疑者という呼称を用いるにも関わらず、何故か2001年に公務執行妨害と道路交通法違反で元スマップの稲垣 吾郎さんが現行犯逮捕された際や、2018年に元TOKIOの山口 達也さんが強制わいせつ容疑で書類送検された際に、容疑者という表現は用いず「メンバー」として報じた。ジャニーズのタレントを容疑者と報じず「メンバー」とする(もしくは単に容疑者という表現を用いない)事案は他にも多数事例がある。ハフポストは山口さんの送検に関連して「メンバー」という呼称が用いられる理由についての記事「「山口達也メンバー」とメディアが報じる理由が3分で分かる」を掲載しているが、3分で分かるどころか何を言っているのかよく分からない。確かに山口さんは、池袋の件の容疑者同様逮捕されなかったようだが、前述の稲垣さんに関しては現行犯逮捕されているからだ。

 メディアに露出している人間・又は制作等に関与している人間には相応の責任・影響力を持つという観点からか、タレント、テレビ局や新聞社に携わる者が逮捕されたり送検されたりすると、メディア各社は一般的な市民では報じられないような事案でも取り上げる場合が多い。特にタレントや有名人については厳しく報じる。しかし何故かジャニーズのタレントの場合だけ特別扱いの配慮・忖度するような傾向にあるメディア各社が、「容疑者という呼称は、逮捕や指名手配された場合に使用される」などとしても、その基準が適切に適応されていると信頼できるだろうか。
 その基準自体に問題性があるとは思わないが、運用が適切かどうかとはまた別で、ジャニーズのタレントの例を勘案すれば、池袋の件に関しても、容疑者が旧通産省・元工業技術院長、瑞宝重光章の叙勲を受けているという経歴や、それ以外の何かに忖度しているんじゃないか?と邪推してしまう


 トップ画像は、 真摯(シンシ)とは - コトバンク のスクリーンショットを使用した。

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