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「間違うこと」よりも「間違いを認められないこと」の方が絶対的に恥ずかしい


 5/3の投稿「「#自民党2019」プロジェクトのキナ臭さ」でも書いたように、自民党の当該キャンペーンは間違いなく選挙を見据えた若年層向けのキャンペーンなのにもかかわらず、同キャンペーンには自民党の公約等は一切盛り込まれておらず、イメージ性重視で中身はスカスカだ。
 昨日の投稿「自民党は「みんなはどんな世の中にしたい?」を聞いてくれるのか」で、
 ViViのキャンペーンは、#自民党2019 というハッシュタグを用いて、SNS利用者から「みんなはどんな世の中にしたい?」についての主張を募るという内容だが、43万人の沖縄県民が県民投票で示した「辺野古移設反対」の意思表示を無視する政権与党が、果たしてそれに耳を傾けるだろうか?
という見解も示した。つまりViViが行っているキャンペーンも自民党2019自体も、選挙の為に(聞くだけで何かするとは言ってない)という本音を隠しつつ、体裁だけ「国民の声を聞いてあげる」とアピールしているようにしか思えない。


 これについて、
と、同じ趣旨のツイートをしたところ、

というリプライがあった。「既存の野党はウンコ」という稚拙な表現を使うような輩だったので無視しても良かったのだが、
 県民投票を県民アンケートと呼ぼうが、結局43万人の沖縄県民が「辺野古移設に反対」したことに変わりはないわけで、それを無視する政権与党に「どんな世の中にしたいか」を示したところで、意に沿わなければ無視すると推測することが不自然でないことには何も変わりはない。
リプライすると、県民投票とか県民アンケート云々という、自分の持ち出した話をすっ飛ばし、

と、急に各党の支持率の話を始めた。そもそもこちらが主張したのは「自民党2019キャンペーンは看板に偽りありだろうから注意しなくてはならない」であり、自民党は信用ならないので消去法で立民消極的支持という認識を持ってはいるものの、当該ツイートでは「現政権は信用ならないから野党へ」などと、野党の支持を促してはいない。
 端的に言って、「現政権与党が沖縄県民の意思表示を無視したことに変わりはない」という話に合理的な反論ができず、唐突に支持率の話へ話題を逸らしたかったのだろうとしか思えず、
 県民投票・県民アンケート云々の話はどこにいった? 言いたい事をツイートしたいだけならリプじゃなくて自分の単独ツイートとしてどうぞ。都合が悪くなって持ち出された別のお話には付き合いません。
返答すると、その後の当該スレッドを見て貰えれば分かるが、また唐突に「なぜ沖縄県民投票を無視してもよいのか」を主張し始めた。結局彼は「現政権与党が沖縄県民の意思表示を無視したことに変わりはない」ということも、都合が悪くなったから話を支持率にすり替えた事も暗に認めたと言って差し支えなさそうだ。
 こちらは現政権与党が沖縄県民投票結果を無視した事実を指摘しており、彼がどれだけ「県民投票結果を無視しても問題ない」かを論じたところで、結局、現政権と与党が沖縄県民以外のその他の民意も、自分達の意に沿わなければ何か理由を付けて無視する恐れがあることに変わりはない。ただ彼が、唐突に支持率の話を始めずに「なぜ沖縄県民投票結果を無視してもよいのか」を主張していたら、一応コミュニケーションが成立すると思えたかもしれないが、都合が悪くなると話をすり替えようとする人には何を言っても暖簾に腕押しにしかならない、なので、話をすり替えた、又はすり替えようとした時点でコミュニケーションを継続しようというモチベーションは失せてしまう。


 この手の話は、この彼に限ったことではなくSNS上ではしばしばあることだ。このような場面に遭遇する度に、
 他と比べてではないが、日本人には「間違うことは恥」と思い込むあまりに、間違いを認められない人が結構多い。「間違うこと」よりも「間違いを認められないこと」の方が絶対的に恥ずかしいのに。
と感じる。
 これには日本型教育の弊害による部分がかなりあるだろう。みんなと同じ横並びを過度に奨励し、失敗を極力避け、間違いは極力起こしてはいけないという認識を子どもの頃から植え付けている側面が、日本の教育には確実にある。中には「間違うことは恥ずかしいことじゃない」と言ってくれる先生もいるが、生徒の間違いを茶化して馬鹿にしたり、笑ったりする先生もいた。勿論、同じ間違いを何度も繰り返すことは極力避けねばならないと教えることも必要だろうが、間違いや失敗自体を馬鹿にしたり笑ったりするのは、前述のような弊害を引き起こすだけでなく、チャレンジしようというモチベーションを削ぎ、「みんなと同じで目立たないのが一番だ」というマインドを過度に助長しかねない側面もあるだろう。

 現在の政権にはこの「間違いを認められない傾向」が著しく見られる。だから公文書を隠蔽したり改ざん捏造したり、不適切に廃棄しようとしたり、そもそも文書を残そうとしなかったり、兎に角隠そうという事案が現政権与党では続発しているのだろう。 昨日の投稿でも触れた、選挙に都合が悪いからと、6/3に金融庁が、95歳まで生きるには夫婦で年金以外に約2000万円の資産が必要になるとの試算を示した件(日経新聞「人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書」)を、なかった事にしようとしていることにも、その傾向が如実に表れている。



 誤解のないように言っておけば、イデオロギー的に逆側の者の中にも、同様に「間違いを認められない」者というのは確実に存在するが、自分のSNS投稿に反論を示す人の多くは現政権与党支持者で、それらの「間違いを認められない」人達を見ていると、政権与党が間違いを認めないから支持する彼らもそれに倣っているのか、自分達が「間違いを認められない」人達だから、政権与党が強引で不合理な説明を繰り返しても疑問を持たないのかは分からないが、そこには確実に悪循環が存在しているように思う。

 現実の社会でも「間違いを認められない」人に遭遇することはあるが、ネットだと顔や名前が見え難く、論点のすりかえや間違いの隠蔽を平然とする人が実社会よりも多い傾向にあると感じる。そして国の最高指導者たちが「間違いを認めない」人達であることも、そんな状況に拍車をかける一因ではないだろうか。
 昨今見られるようになったわけではなく、以前からある言い逃れではあるが、6/8の投稿でも触れたように、
  • 尻には触れたが痴漢する意図はなかった
  • 殴ったがあくまでも躾で虐待する意図はなかった
  • いじりのつもりでイジメている意図はなかった
  • ナイフで刺したが殺すつもりはなかった
なんて話をしばしば聞く。人を先天的な「不良品」として扱う事の不適切さ加減を批判されたのに、所謂大御所芸人や在京キー局の経営者がそれを認められないのも似たような話だし、よしもと所属のコンビ・カラテカの入江 慎也さんが複数の芸人に対して、詐欺グループの忘年会への出席を仲介したとされる問題(6/7の投稿)で、出席した芸人の中にロンドンブーツ1号2号の田村 亮さんがいたのだが、デイリースポーツが誤って田村 淳さんと報じ、 BuzzFeed Japanが記事配信の経緯やお詫び・訂正の可能性について問い合わせても、「弊社の方からお答えすることは何もございません。今後ご質問いただきましても、お返事できかねます」と回答を拒否したこと(BuzzFeed Japanが「ロンブー亮と淳を取り違え、デイリースポーツ炎上で謝罪 カラテカ入江の闇営業問題」と記事化した後に謝罪を掲載)なども「間違いを認められない」傾向の現れだろう。

 国・メディア・有名な芸能人などがそんな傾向にあれば、「それでいいんだ、言い張ったもん勝ちなんだ」と意識的に、若しくは無意識的に考える者が増えてしまうだろう。そして大人がそんな傾向になれば、それを見て育つ子どもの中にも同じ様に考える者が確実に増えてしまう。これを悪循環と言わずに一体何を悪循環というのだろうか。
 しばしば「組織は頭から腐っていく」と言われるが、今まさに国全体がそんな状況に片足をつっこんでいるのではないだろうか。

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