7/9の投稿で、小田嶋 隆さんの「バカな人たちが無思慮に乱用したおかげで、有効性を失いつつある言葉がいくつかある。「印象操作」とか。」というツイートを紹介し、他にも似たような話は複数あると書いた。4/21の投稿では、同様の理由によって、「真摯に受け止める」という表現は、慣用表現として「勘案する素振りを見せながら無視する」単に「無視する」、転じて「二枚舌を使う」という意味を持つようになった、という話を書いた。4/21の投稿では「誤解を招いた」についても、同様に恣意的な解釈で都合よく悪用されている表現であることを指摘した。
昨年頃迄は、「誤解を招いた」の悪用は主に政治家に見られる傾向だったが、最近は政治家だけでなく、不適切な記事や番組での表現等を指摘されたメディアまでもが用い始めたことを、9/3の投稿で書いた。本来権力を監視し、不備を指摘するのがメディアの大きな役割の一つの筈なのに、政治家の不適切な言い逃れと同じ表現手法を用いる。このままでは、親や先生に叱られた子どもが、「誤解を招いた。指摘は真摯に受け止める」と受け流すようになる日もそう遠くはない。政治家やメディアがそれをやっていて、その不適切さを見逃すようであれば、そんなことを言う子どもを大人が叱ったところで説得力はない。子どもは大人の写し鏡だ。
神奈川県・黒岩知事が、表現の自由の意義を理解していないとしか言いようのない見解を、会見で、つまり公式に披露したことを8/29の投稿で紹介した。当然の如く各方面からの強い批判・指摘に晒されたのだが、「検閲するつもりない」 不自由展で黒岩知事釈明 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞 によると、黒岩氏は9/3の定例会見で、8/27の発言は「慰安婦像問題という政治的メッセージに絞ったもので、一般的な政治的メッセージを認めないと言ったわけではない」と釈明し、「私の言葉が足りなかった。誤解を与えたことは率直におわびしたい」と述べたそうだ。しかし記事を読んでも、一体何を詫びているのかさっぱり分からない。記事の内容が知事の主張と大きく乖離していないようであれば、知事は「取り敢えず「お詫び」してやりすごそう」と思っているようにしか見えない。そんな横柄なお詫びに一体何の意味があるだろうか。
自分は昭和後期・横浜市生まれなのだが、親・小学校の複数の先生などに、
ただただ「ごめんなさい」としか言わず、一体何について悪いと思っているのかを言わないようであれば、それは「ごめんなさい」とだけ言っておけば済むと思っている証拠だと言われて育った。日本ではどの世代・どの地域でも同じように教えられるものだと思っていたが、それはどうやら思い違いだったらしい。そうでない大人、しかも自分よりも20歳以上も年上の人達にも、そんな酷い謝罪・言い逃れをする者が大勢いる。
神奈川県つながりで言えば、横浜・林市長も似たり寄ったりだ。横浜市は8/22に、カジノを含む統合型リゾート施設(IR:Integrated Resort)の誘致を発表した。林氏は元々カジノを含むIRの誘致に前向きだったが、2017年の市長選の際に「白紙」にすると表明して出馬し、当選を果たした(横浜市がカジノ誘致を正式発表 「これまでにない経済的社会的効果」 | ハフポスト)。しかし、テレ朝ニュースの8/22の記事「【報ステ】横浜市“カジノ誘致”表明・・・94%が否定的」によれば、見出しの通り、市民の94%が誘致に否定的とのことだ。しかも、これは横浜市が市民に対して行った調査の結果だそう。
8/24のTBS・報道特集では、その点について記者に追及され、苛立ちを募らせる林氏の様子が紹介された。番組の中で、会見後控え室?に戻った林氏が、手に持っていた書類の束を投げ捨ててばら撒いた(すりガラス越しにそう見える)映像も紹介された。
この映像について、8/3の市議会定例会で問われた林氏は、書類の束をばら撒いたことを認め「手が滑ったことは間違いない」と述べたそうだ(IR誘致会見後の書類投げ捨て 横浜市長「手が滑った」 - 産経ニュース)。しかし、何度映像を見返してみても、手が滑って書類の束をばら撒いたようには全く見えない。どう見ても故意に宙に書類の束をぶちまけたように見える。つまり林氏は「イラついて書類に当たったのではなく、意図せず書類をばら撒いてしまった」と言っているのだろう。「誤解を与えた」という表現は用いられていないものの、実質的にはそう言っているに等しい。
林氏がこのようなことを言うならば、彼女の今後の発言は全て信用できない、都合よく解釈し表現する恐れがあると言わざるを得ない。
このような件ばかりを紹介すると、そもそも「誤解を招く」という表現自体が不適切な表現かのように感じる人も出てきそうだが、それもまた「誤解」である。「誤解を招く」とは、どのような場合だと妥当な表現になるだろうか。
例えば、昨日の投稿で紹介した、オリンピック組織委員会が「旭日旗を会場で使用することを否定しない」という見解を示したことについて、産経新聞は「旭日旗、競技場で許可へ 五輪組織委 韓国の禁止要請に方針」という見出しで報じた。
しかし本文では、
「旭日旗は日本国内で広く使用されており、旗の掲示そのものが政治的宣伝とはならないと考えており、持ち込み禁止品とすることは想定していない」との方針を明らかにした。と伝えている。組織委員会は「持ち込み禁止品とすることは想定しない」、つまり「持ち込みを禁止する予定はない」とは言っているが、「持ち込みを許可する」とは言っていない。「禁止しない」と「許可する」は似ているようで異なる。禁止しないはブラックリストに載せないというニュアンスで、許可するはホワイトリストに載せるというニュアンスであり、実態は確実に異なる。混同してはいけない。
それ以前にそもそも、組織委員会が観客の持ち物について、許可する立場にあるのかも怪しい。法律等に基づいて特定の物の持ち込みを禁止することはあっても、原則的に持ち込みを禁止した物について、特定の場合にのみ持ち込みを許可する場合等を除いて、基本的には許可する立場にはないというのが妥当だろう。
昨日の投稿でも書いたように、自分は組織委員会の姿勢を全く容認しないが、それはそれで別の話で、産経新聞の見出しは「誤解を招く表現」と言えるだろう。産経新聞は社説で「【主張】韓国の難癖 旭日旗批判を突っぱねよ」などと主張するくらいだから、どうにか「旭日旗を使用したオリンピックの応援OK」という話を強調したくて、「禁止しない」を「許可した」に言い換えたのだろう。
また、菅官房長官は、9/3の投稿で紹介した週刊ポストの「韓国なんて要らない」「嫌韓ではなく断韓だ 厄介な隣人にサヨウナラ」「10人に1人は治療が必要ー怒りを抑制できない韓国人という病理」など、ヘイトスピーチ丸出しの企画掲載について、9/4の会見でコメントを求められると、
個々のメディアの報道内容と報道姿勢について、政府としてコメントは控えると述べたそうだ(菅官房長官「コメントは控える」 週刊誌の「韓国要らない」特集に - 産経ニュース)。
彼は、都合の悪いことを質問されると、「コメントは控える」として明言を避けることがよくある。しかし「一般論として」と前置きし、公式な見解ではないことを強調した上で、しかし実際は一般論ではなく彼の個人的な見解を述べることもしばしばある。つまり、この件についても、彼が週刊ポストの特集には何らかの問題があると認識しているのだとしたら、何かしらの方法で見解を示していた可能性が高い。だが、「日韓関係は現在、非常に厳しい状況にあるが、両国関係の将来のために、相互理解の基盤となる国民間の交流などは、これからも継続していくべきだ」とは言っているものの、産経新聞の記事を読む限り、週刊ポストの記事がヘイトスピーチに該当するかには言及することは避けた上で、「ヘイトスピーチは良くない」と表明することすら、彼はしていない。このような視点で見れば、菅氏は週刊ポストの記事は概ね問題ないと黙認しているように感じられる。
しかしこの受け止めは、大部分が推測の範疇であり、個人の私的な評価という側面も強く、菅氏が週刊ポストの記事を黙認していると断定できるような話でもない。つまり彼には、「そのような批判は誤解に基づいている」、と述べる余地が残されている。しかし付け加えておきたいのは、菅氏は、週刊ポストの記事の内容について問われた際に、同記事の内容やヘイトスピーチを否定しなかったのは紛れもない事実である、ということだ。
「誤解を招く・誤解」はこれらのような場合に用いるのが妥当だ。
何がどう誤解なのかも明言せずに、若しくは合理的な説明も出来ずに、「誤解を招いた」として謝罪する行為は概ね、
お前らが勝手に誤解したのが悪いのだけど、私は大人だから、誤解を招いた私の発言を詫びてやろう。尚、私の発言や行為には全く問題はないということである。という表明だ。何か分からないが謝意だけは示している、という雰囲気に流され、それで有耶無耶にしてしまうのは相手の思う壷である。言い換えれば、相手はあなたを馬鹿にして軽くあしらっているということだ。
余談だが、今年・2019年4月の統一地方選で、大阪市民/府民が再び吉村・松井氏を市長/府知事に選んだこと、彼らが率いる維新の会が大勝を納めたのを見て、「大阪の人達はなぜそんな選択をするのか」と不思議で仕方なかったのだが、この投稿で紹介した神奈川県知事/横浜市長の様子を見るに、自分の出身地・神奈川/横浜も似たり寄ったりな状況であることを思い知った。支離滅裂で嘘をつく事を厭わない現政権が、韓国との対立姿勢を示すだけで支持率が回復するような状況を考えると、それは決して大阪や神奈川だけの傾向ではなく、日本全体が似たような傾向になっていると言えるのではないか。
8/31の投稿、9/3の投稿でも指摘したように、やはり日本全体がカルト化し始めており、決して少なくない有権者、そしてメディアも、政府に付和雷同している、よく考えもせず流されているようにしか思えない。
民主主義とは決して完全無欠のシステムではない。有権者やメディアなどによる権力の監視が機能しなければ、簡単に崩れさてしまう脆さを、民主主義は孕んでいる。 日本は戦前、完全ではないにせよ民主主義を一度確立したが、監視機能が抑圧された結果、悲惨な戦争を起こした。それは第一次世界大戦後のドイツも同様だ。自分は再びそんなことが起きるのはまっぴらごめんである。多くの日本人もその認識は変わらない筈なのに、何故か再びそんなことになりそうな気配が徐々に大きくなっている。