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自由と権利の軽視


 日本は戦後、大日本帝国憲法を、国の主体を国民一人一人とする民主主義的な日本国憲法に改めた。日本国憲法3章11条には次のように書かれている。
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 この条文が定めているのは、読んで字のごとく全ての人の人権保障だ。条文では国民とされているが、もしこれが一般的な意味の「国民」だとすると、日本では日本国籍者以外には人権を認めていないことになる。もしその解釈が妥当だとしたら、たちまち日本は他国他地域から差別主義国家と認識されることになるだろう。つまりこの場合の「国民」とは、一般的な意味での国民とは異なり、日本にいる全ての市民と解釈するのが妥当だ。
 このような実状に沿わない文言を、実状に即した分かり易い文言に改めようという内容の憲法改定であれば、自分は間違いなく賛成する。

 日本国憲法は様々な自由と権利を規定している。19条では思想信条の自由、20条では信教の自由、21条では集会・結社・言論・出版等の自由、22条では居住転居・国外移住・国籍離脱・職業選択の自由、23条では学問の自由を保障している。
 これら以外でも、他者の権利や自由を侵さない限り、どんなことも自由に行う権利が、日本では憲法によって保障されているはずだ。


 なぜこのようなことが日本国憲法に規定されているのか。それは勿論、敗戦によって民主的な諸外国の制度を取り入れたから、ということでもあるが、戦前の日本では、様々な自由が制限され、その影響によって全体主義・軍国主義化を招き、軍人軍属230万人、本土外の一般人30万人、本土内で50万人、合計して300万人以上もの戦死者を出すことになった、70年前の日中戦争/太平洋戦争に至ったことを教訓とし、二度とそのような悲劇を招かない為でもある。
 つまり、自民党とかいう党が進めようとしている、伝統的な家族観を重んじるとか、9条を骨抜きにして再び軍備を勧められるようにすることが目的としか思えないような、大日本帝国憲法への回帰を重視した憲法改正なんて、まったく正気の沙汰とは思えない。過去に学ばない者は再び同じ過ちを繰り返すことになる


 昨年夏の参院選やその後に行われた地方選の中で、首相や大臣の演説に対して異論を示した者が警察によって強制的に排除される、という事案が複数起きた。特に事案が多かったのは北海道だった。
 昨年の夏、日本の与党政治家のスキャンダルよりも韓国法相候補のスキャンダルばかりを取り上げたり、日韓政府間の関係悪化について、明らかに中立性を欠き日本政府に肩入れした放送を、民放キー局が軒並みやったことをきっかけに、個人的なテレビ報道への信頼感は地に落ちた。TBSのNEWS23や報道特集など、まだまともかも…と思える番組もあるものの、そんなのはもう極少数であり、基本的にテレビ報道は殆ど信用に値しないとお思っており、批判的な内容の投稿ばかり書いている。
 昨夏の政府関係者への異論を警察が強制的に排除した件についての、北海道放送が「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」という番組を4/26に放送した。この番組は現在Youtubeで全編公開されており、誰でも閲覧することが出来る。


 北海道での事案だけでなく、他地域の事案も取り上げられているし、戦前に同じ様なことを国や警察がやっていたことにも触れている。また、この件を違法な行為とする告発がなされたが、不起訴とした検察等の異様さにも触れている。昨今のテレビ報道の中ではかなり珍しいまともな内容だった。


 4/22の投稿4/25の投稿4/27の投稿で、大阪府を始めとしたいくつかの自治体が、休業要請に応じないパチンコ店を公表する/したことに触れた。個人的には、現在公表する方針を示している自治体の首長は、これまでにも既にある種のヤバさが感じられた知事ばかりだと認識している。
なぜ短期間にこんなにもこの件に触れているのかと言えば、そのような行政の態度にかなり強い懸念を抱いているからだ。4/27の投稿でも書いたように、あたかも「自粛しない奴らはけしからん」というニュアンスで報じるテレビ報道や、同様な姿勢の一部のその他メディアにも強い懸念と憤りを感じている。何がどう危険なのかは4/27の投稿に書いたので割愛することにする。

 この新型コロナウイルス感染拡大が、国内でも始まった2月、まず市中で感染が確認されたのは都内のタクシー会社で、屋形船での宴会によって感染が拡大したと報じられた。次に話題に上ったのは和歌山の病院だったが、医療機関ということで特に槍玉に上がることはなかった。その次に注目されたのは大阪のライブハウスだ。この時は政府や専門家、そしてメディアが一斉にライブハウスやクラブ(音楽)は危険だという認識を示し、又は伝えていた。
 そして3月に入ると今度は夜の街、つまりキャバクラやクラブ(水商売)で感染が拡大しているとされ、それらが槍玉に上げられた。またその影響で性風俗店も少し話題に上ったが、強く嫌悪の対象になったのはキャバクラやクラブ(水商売)、そしてライブハウスやクラブ(音楽)だった。
 しかし同時期に、政府専門家会議の関係者や厚労省は、それらよりも間違いなく過密状態になる満員電車について「喋ったりしないのでそれら程危険ではない」という見解を示していた(4/16の投稿)。自分にはその時既に、一般的には煙たがられることも多いライブハウスやクラブ、水商売等がスケープゴートにされている感があった。

 そして先週来槍玉に上がっているのは営業をパチンコ店である。 昨日、テレワークの準備すらしていなかった新型コロナウイルス対応担当大臣(4/26の投稿)がこんなことを言っている。

西村担当相「休業応じないパチンコ店に罰則検討も」 特措法改正の考え明かす - 毎日新聞


 他にも不要不急の経済活動を続けている業種・企業はあるのに、なぜこの大臣はパチンコ店だけに言及しているのか。パチンコ店が過密だから、と言う人もいるだろうが、例えば、コールセンターのオペレーターが過密状態で業務を続けていると訴えているようだし、対策がなされるまま業務を続けさせている建設現場の話もある。
パチンコ店だけを目の敵にして槍玉に上げる担当大臣や自治体の首長は、ネットで自分に都合のよい言いたいことだけを言う人達と一体何が違うのか。結局何かやってる感を演出できる、やってる感を最大限にアピールできる(と考える)、自分達にとって都合のよいことしか目に入っていないという感しかない。


 前述の北海道の番組でも、警察が政府にとって都合の悪い異論を排除しようとした、というか「排除した」のがよく分かるし、パチンコ店等をスケープゴートにしている件も、都合のよいことしか見ようとしない、そして都合の悪いことは強引に排除する行政の姿勢が強く滲んでいる。
 このように、行政が都合のよいことばかりに、というか都合のよいことだけにしか注目せず、都合の悪いことを排除するというのは、日本が戦前に犯した過ちそのものだ。しかも、政府や行政に対して異論を唱える自由と権利市民や私企業が自由に経済活動する自由と権利を、法の拡大解釈によって既に不当に制限してしまっている。そのような措置が本当に必要なのであれば、強引な法の拡大解釈によって実現するのではなく、正当な手順を踏むべきだ。とは言っても、日本の有権者がそのようなことを平然とやる党に多数の議席を与えてしまっている為、法改正すらも正当な手順ではなく、強引に行われるのがこの数年の日本の実状である。
 この状況を見て、戦前回帰、という言葉が頭をよぎらない人は相当鈍感だ。

 過去に学ばない者は再び同じ過ちを繰り返すことになる。


 トップ画像は、Photo by Luis Quintero on Unsplash を加工して使用した。

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