少し極端だな、とも思ったが、この投稿のタイトルを「沈黙の罪」とした。勿論全ての沈黙が罪に該当するとは言えない。拷問や強迫による自白強要を防ぐなどの目的で、取り調べ等における黙秘権は認められている。取り調べ等に限らず、脅迫を受けている場合など、自己防衛の為に沈黙することは、決して罪とは言えない。
しかし目前で、誰かが精神的・物理的に虐げられていて、それを助けられる状況にあるのに、沈黙し、無視し、何もせずに通り過ぎるのは、法律的に許されない犯罪ではなくても、道義的な罪悪にはなり得る。困っている人がいるのに、それが分かっているのに、他人事と捉えて沈黙するのは、場合によっては加害行為への加担にもなる。
わかりやすいのは学校のクラス内でのいじめだ。いじめの主体が3-5人程度、いじめられている者が1-2人程度、後は傍観者だとする。傍観者が全員で声を上げいじめられている側につけば、いじめは大抵止められる。それをしなければ、傍観者は傍観することで、結果的にいじめる側につくことになる。このようなケースにおいて、沈黙は道義的な罪だ。
フォルクスワーゲンのYouTubeアカウントが、性的少数者の地位向上に関するコマーシャルを昨日公開した。
Charged with pride | Volkswagen - YouTube
国際女性デーに、海外企業の幾つかは女性地位向上に関する動画を公開するが、日本企業にはそのような動きが見られない、ということを、2019年3/10の投稿、2020年3/9の投稿で指摘した。また、7/4の投稿で、日本企業は人権問題・社会問題への関与に消極的である、と指摘した。このCMを見た際もすぐに、日本企業からこんなCMは出てこないな、と連想してしまった。
しかし、その責任は日本企業だけにあるのだろうか。個人的にはそう思わない。勿論人権問題・社会問題へ消極的な日本企業には沈黙の罪があると思っている。しかし、企業が人権問題・社会問題について意思表示することを、少なくない日本の消費者がよく思わないから、優しく言っても何とも思わないから、企業がそのような姿勢になっている側面もあるのではないか。
前述の2019年3/10の投稿で紹介したように、トヨタパキスタン、トヨタアメリカなどは、日本企業ではあるが、女性地位向上に関する動画を公開している。しかし日本の本体はそのようなことをしない。また逆に、本国や他地域ではその種の動画を公開している自動車メーカーも、日本向けには、若しくはその日本法人は、その種の動画を殆ど公開していない(フィアットジャパンなどの例外はある)。つまり、日本人全般に人権問題・社会問題へ無関心な傾向がある、のではないかと想像する。むしろ、人権問題・社会問題を訴える者は大抵甘えている、という嫌悪感があると言える状況かもしれない。日本、日本人には、自分が当事者にならなければ他人事と捉えて沈黙する傾向があると言えそうだ。
因みに前述のフォルクスワーゲンの動画は、現在開催中のサッカー EURO2020に関するCMでもあり、なので、レインボーカラーに塗られたキャンペーン車両が、スタジアム内を走行するカットも含まれている。
英国在住の友人と、バイクの世界選手権の一つ・MotoGPについて話した。日本では日本テレビが放映権を持ち、日テレ系CSチャンネルの
G+ / Web動画配信サービスの Hulu で で中継が放送/配信されているように、英国では BT
Sport という有料チャンネルが MotoGP 中継を放送しているそうだ。
有料チャンネルは大抵、番組の最初やCM前後に、ステーションIDなどと呼ばれる、放送局/チャンネル名をアピールする数秒のビデオクリップを挿入するのだが、BT
Sport
では現在、オンラインヘイト撲滅を呼びかけるステーションIDを放送しているそうだ。次の動画は、BT
Sport を含む
BTグループのYouTubeアカウントで公開されている、オンラインヘイト撲滅を呼び掛けるコマーシャルのロングバージョンである。
Hope United TV Ad – The Hate - YouTube
BT Sport 及び BT では、オンラインヘイト撲滅を呼び掛ける前は、#blacklivesmatter 、ブラックライブズマターへの賛同をステーションID等で示していたそうだ。
日本のスポーツ系有料チャンネルでそんなのは見たことがない。いや、スポーツ系、有料チャンネルに限らず、民放でも見かけない。日テレは24時間テレビをやってるじゃないか、と言う人もいそうだが、あれは出演者等が金儲けの為にやっている似非チャリティー感が否めない。
そのような意味で、日本のテレビ局にも沈黙の罪がある。いや、テレビ局だけでなく、発信力があるのに、人権問題や社会問題に一切触れずに他人事をきめ込む企業・組織・著名人も同様だ。今夏のロッキンオンジャパンフェスも、運営者が昨年に続いて中止を決定したことで、出演者が憤りを見せているようだ。気の毒だと思う一方で、これまで多くの人達が自粛を強要されて同じ様な状況に追い込まれていたのに、発信力があるのにそれには沈黙しておいて、いざ自分が当事者になったら不満タラタラか、とも思えてしまい、複雑な思いだ。自分が当事者になってから憤るようでは手遅れなのだ。そうならないように、他の人が困っている時点で声を上げるべきなのだ。
それは著名人・発信力・影響力を持つ人に限ったことじゃない。誰かが困っているのに一切手を差し伸べずに、自分が困ったときだけ救済を求めるのは、あまりにも虫が良すぎる。まさに、情けは人の為ならず、である。
昨日の投稿でも指摘したように、オリンピック代表選手が「選手が何を言おうが世界は変わらない」と言う一方で、大会関係者や政府関係者が「スポーツの力」云々と連呼している。そこには、スポーツの政治利用など、かなり気持ち悪い異様さがある。
本当にスポーツの力があるのなら、フォルクスワーゲンやBTスポーツのように、それは性的少数者の地位向上、有色人種等の地位向上、多様性尊重の啓蒙など、人権問題・社会問題へ振り向けるべきなのに、日本では何故かスポーツの力があるから五輪開催強行!という意味の分からないことになってしまっている。しかもオリンピックでは、それらの主張は政治的であると排除されるようだし、なにからなにまでオリンピックはクソだな、という感しかない。
トップ画像は、見ざる聞かざる言わざる – イラストストック「時短だ」を使用した。