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アートと社会問題、問題提起

 マルセル デュシャン の Fontaine(日本語では泉、又は噴水)は現代アートの原点と言われている。この作品に関しては、実はデュシャンの作品ではないとか、この作品は現代アートの原点ではないとか、様々な説や見解があるようだが、既製品の小便器にサインをしただけのこの作品が20世紀初頭の芸術界に物議を醸した、ということは間違いなく事実だ。


 それ以前の芸術とは、概ね技巧的で美しいものであり、単純に見た目に分かる、聞いて分かるなど、物理的に分かりやすく綺麗で心地よいもの、のような認識だったが、現代アートでは作品のコンセプトもその評価の対象になり、必ずしも技巧的で美しい必要はない、ということになっている。だから、ただ単に1色で塗っただけのキャンバスや、誰にでも書けそうなフリーハンドの緑の塊が描かれただけのキャンバスにも、1億以上の値がつく場合がある。


 トリエンナーレとはイタリア語で、3年に一度開かれる国際的な美術展を意味する。2年に一度の場合はビエンナーレだ。日本でも1990年代からトリエンナーレ形式の美術展が増えた。規模が大きく有名なのは、2001年から始まった横浜トリエンナーレだ。最近では、表現の不自由展の影響で、あいちトリエンナーレも知名度が高い。それらの美術展が扱うのも、やはり主に現代アートである。

 あいちトリエンナーレ/表現の不自由展についての顛末は、これまでに、

などで書いているので割愛する。

 2019年のあいちトリエンナーレで充分な展示が行えなかったこともあってか、表現の不自由展は今夏・東名阪で展覧会を開く予定だったが、嫌がらせが相次ぎ、東京では会場変更が余儀なくされた。大阪でも嫌がらせが起きて、開催予定だった施設側が急遽開催許可を取り消した。大阪における「安全面での懸念」という公的施設の突然の許可取り消しに対して、展覧会側は表現の自由に対する不当な扱いとして提訴、地裁・高裁とも利用許可の取り消しは不当と判断したが、大阪府はこれに対して特別公告した。しかし最高裁はこれをすぐに退けた。
 本来、施設への嫌がらせ行為起きたなら、行政は安全に表現活動が行えるように配慮し、最大限の警備、嫌がらせ行為に関する捜査を行うべきだが、府の対応は、実質的に嫌がらせ行為の目的達成への加担でしかない。嫌がらせの中には、サリンと書かれた液体を送り付ける、ナイフを送り付けるなどの行為もあり、深刻な物理的被害が生じなかったとしても、それらの行為は、明らかに政治的な意図を伴った暴力行為にほかならず、嫌がらせではなくテロ行為の範疇にも及んでいて、つまりそのような行為の目的達成に行政が加担しているのだから、大阪では白色テロが起きているとすら言えるような状況だ。

 最高裁が司法判断を示したことで、府はそれに従わなければならなくなり、表現の不自由展かんさいは、7/16-18、つまり今日まで開催されている。

表現の不自由展かんさい、施設利用認める司法判断が確定:朝日新聞デジタル


 この投稿の冒頭でも書いたように、現代におけるアートとは、誰が見ても概ね技巧的であり美しいものとは限らず、コンセプトを持って問題提起するもの全てがその対象であり、表現の不自由展はまさにその典型的な例だ。
 朝日新聞記事の写真にも写っている、会場の前を往来する、開催に反対する右翼団体の街宣車。昨日自分のツイッターのタイムラインに、その様子を撮影した動画も流れてきた。

 このツイートを見て、この光景も含めて表現の不自由展だ、と思った。 この映像も現代アートの一部になってる。 彼らが騒げば騒ぐほど、内外の注目が集まるという、とても逆説的な状況になっている。
 ただ、街宣右翼の目的は、標的への直接的ダメージを狙っているわけではなく、会場周辺で騒音をまき散らすことによって、周辺住民に「標的の所為でうるさくてかなわない」と思わせるところにある。民主党政権当時、神奈川県民主党本部の近所で働いていた時期があったが、多い時は連日、少ない時でも数日に1回は街宣右翼が嫌がらせに来ていて、近所の飲食店などの中には、民主党本部があるからこんなことになっている、なんてことを言う店主や店員もいた。
 当時はまだ今ほどSNSが流行っておらず、このツイートのような投稿が今ほど話題にはならなかった。つまりそれを目の当たりにするのはその周辺住民や働いている人達だけで、その嫌悪感を煽る効果はあったのだろうが、今はSNSや動画投稿サイトが以前より一般的になっており、何が行われているのか、をこうやって拡散することは、そのような不適切な方向性の嫌悪感を抑制するのに役立つだろう。


 また今日は、こんなツイートもタイムラインに流れてきた。

 IOC会長 バッハが滞在しているホテルオークラの周辺での抗議行動を、警察が力ずくで排除する様子が映っている。 前述の、表現の不自由展に対する右翼団体の街宣活動、川崎などでのヘイトデモを、警察は何重にも覆って保護する一方で、IOC会長への抗議行動は力ずくで排除する。香港の警察と一体なにが違うのか、ミャンマー国軍化目前、というのは考え過ぎか。そんな想いにかられる。

 警察は数年前から政府に都合の悪い異論を排除し始めている。特に顕著だったのが2019参院選の前後だったが、コロナ危機下でも警察が市民を威圧する様子が見られた。
 このままでは、日本はいずれ香港の二の舞になる。そうなりたいかどうか。それは有権者の意向に委ねられているが、自分は断じてそれを許さない。


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