小学校の同級生・Yくんの家はお金持ちだった。彼は不動産屋の息子で、友達の中には、彼の親の持ち物のアパートに住んでいるやつも何人かいた。Yの家はちょっとした豪邸で、彼の家の居間にはシャンデリアがあった。シャンデリアのまわりには4つダウンライトがあって、部屋のドアの脇には、シャンデリアのスイッチと調光できるタイプのダウンライトのスイッチがあった。
ちょっと裕福なやつの家には小さなシャンデリアがあることもあったが、調光できる照明とスイッチがあったのはYの家だけだった。Yの家のその部屋にはリアプロジェクション型の大きなテレビがあって、子ども心に映画館みたいだな、と思っていた。スパルタンXとかプロジェクトAとか、ジャッキーチェンの映画をそこで見たのを覚えている。画面に悪いからという理由で、テレビゲームはそこではやらせてもらえなかった。
毎日新聞 校閲センターのアカウントがこの記事についてツイートしていた。
女優? 俳優? | 毎日ことば
毎日新聞 校閲センターのアンケートによると、男性俳優は普通「俳優」なのに、女性俳優を「女優」とするのは、
- 男女平等でないと感じる 40.6%
- 問題ないと思う 47.8%
- 積極的に「女優」を使いたい 11.7%
という結果だったそうだ。たとえば女弁護士とか、女医とか、女社長とか、女〇〇というのは、男〇〇とは言わないのだから、それらの職業は男がやるものという認識に基づいているので、女性蔑視、蔑視とまでは言えなくても軽視のようなものである、のような認識がしばしば示されることがこのアンケートの背景にはあるんだろう。
自分はこのアンケート結果を見て、たしかに映画やドラマの俳優の場合、女優とは言うが男優とは言わない。しかしアダルトビデオの場合は、女性はAV女優だし男性はAV男優で、どちらの場合もAV俳優とは言わない、ということが頭に浮かんだ。考えようによっては、映画やドラマの出演者よりもアダルトビデオ出演者を下に見ているから、男性の場合も俳優とは言わずに男優と呼んでいる、呼んできた、呼ぶようになった、とも考えられるだろうが、しかしそのような認識が一般的か?と言われたらそう断定できる状況でもなく、単に映画やドラマの現場とアダルトビデオの現場の慣習の差と言う方が妥当だろう。
歌舞伎で全ての役を男性が演じるようになったのは近世・江戸期だが、それが長く続いた為、明治期に活躍した川上 貞奴という女性が、日本初の女優とされているようである。
歌舞伎の発祥は女郎歌舞伎であり、つまり本来歌舞伎は女性の文化であったが、公序良俗を維持する為という理由で女郎歌舞伎や若衆歌舞伎が禁じられ、現在の男性だけが演じる歌舞伎になったそうで、もしかしたらそこには男尊女卑の要素があったのかもしれない。しかし、近世の間はずっと役者は男という状況にあったのだから、近代以降女性が役者になった時、女優というふうに認識されたのは、それは概ね男尊女卑に基づいた認識、とまでは言えないのではないか。たとえば、日本のプロ野球では日本人以外の選手を外国人選手と呼ぶし、相撲の世界でも外国人力士と呼ぶが、それは決して外国人蔑視や差別に基づいているとは言い難い。
確かに、女〇〇は男女間の不平等な状況のあらわれであることも多いが、一方的にそう決めつけてしまうのには、別のレッテル貼りの側面もある。
今もまだ、女性専用車両があるのに男性専用車両がないのはおかしい。男性差別だ! なんて言うバカをたまに見かけるが、女性専用車両が設置された理由・背景を考えれば、なぜ男性専用車両がないのかはすぐに分かる。また、女子大があるのに男子大は…みたいな、それと同じようなことを言うバカもたまにいるが、女子大・女学校ができたのには、近代の頃には、女性は学問などする必要がない、のような認識が支配的だったことから、女子教育普及のために女学校が設けられた、という背景がある。しかも、女子の中学校への入学は認められず、女子が中等教育を受けられるのは女学校だけだった。男子大がない理由はそういうことである。男子大と呼ばないだけで、実質的に全ての高等教育機関が男子校だったのだ。
また、一般的にスポーツ団体は男女別でないが、テニスには女子テニス協会というのがある。女子テニス協会ができたのは1970年のことで、男女の賞金/待遇格差を是正しない全米テニス協会に業を煮やした女性選手らが設立したのが女子テニス協会である。
このように、女〇〇の中には、男尊女卑のアンチテーゼとしてできたものもあって、短絡的かつ一方的に、女〇〇というのは女性蔑視だとか女性の軽視だなどと決めるのは、ONかOFFか、敵か味方かのような極端な視点でしか物事を見ることができない者の、安易に単純化しすぎた思考だろう。
世の中にはONかOFFかで判断できないようなことは沢山ある。寧ろそのような場合が殆どだ。それを表現したのが今日のトップ画像の、ON/OFFだけしか切り替えられないスイッチと、調光できるフェーダータイプのスイッチだ。
これは、2017-18年の年末年始に話題になった、顔の黒塗り・所謂ブラックフェイスの問題などにも同じことが言える。
などで書いたことだが、欧米で白人が顔を黒く塗って黒人を嘲笑した過去があり、それによって黒人の多くに顔を黒く塗って黒人に扮する行為への嫌悪感が根強く残っていることは理解するが、一方で、その欧米の感覚によって文化圏の異なる別の地域でまで、顔を黒く塗る行為は、黒人への扮装でなかろうが全て黒人への蔑視に当たる、のようなことを言うのは、あまりにもバカげている。一体何に怒っているのかすらよくわからない。それには文化の押し付けの側面すらある。黒人を嘲笑していないどころか、黒人への扮装ですらないのに、それは黒人蔑視だなんて決めつられたら、黒人とその擁護をする人たちはそんな短絡的な決めつけをやる人たちなんだ、という認識を広めかねず、寧ろ溝を広げるだけだろう。
だから 顔の黒塗り=全て人種差別 なんて短絡的なレッテル貼りをすべきでないし、女〇〇についても同様だ。
そんな風に、何かにつけて、よく考えもせず、ONかOFFか、白か黒か、敵か味方かで安易に物事を捉える人が、SNSの普及移行、というかネットの普及移行増えたように思う。 最近では、コスパだタイパ(タイムパフォーマンスの略らしい)だと言いって、極めて短絡化された情報だけを見て全て分かったような気になり、その受売りをやる人も少なくない。
最近は映画やドラマを1.2-1.5倍速で見たり、TV番組などは切り抜き動画で見るなんてのが流行っているようだ。それを見れば分かった気にはなれるだろうが、実際は、上辺を軽く舐めただけで何も分かっちゃいないだろ、ってケースもすごく多い。それは、あらすじだけを読んで小説を読んだつもりになるようなものだ。あらすじだけしか読んでない者が「夏目 漱石は全て読みました」なんて言っていたらどう思う? 大抵の人は ”アホだ(笑)” と思うのではないだろうか。