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「飛翔体」「容疑者」などメディアが用いる表現について


 昨日・5/9、5/4に続いて再び北朝鮮が「飛翔体」を発射した。5/6の投稿「共同通信「正恩氏、日本人拉致と対話言及『いずれ安倍首相と会う』」の信憑性」で、日本のメディアがミサイルとせずに飛翔体と表現していることについて書いた。自分とは異なる視点の主張・見解も多かったが、日本のメディアが軒並み「飛翔体」としていることについて、SNS上でも複数の違和感が示されていた。
 今回の発射に関してもメディアは、目に付いただけでも
と、軒並み発射された物体を「飛翔体」と表現した。東京新聞だけが断定を避けつつ見出しで「短距離ミサイル」という表現を用いている。 本文も含めればAFPの記事にも「短距離ミサイル」であることを示唆した表現がある。因みに前回は「見出しでミサイルを発射」としたBBCも、他メディアに合わせたのか、今回は日本版では「飛翔体」としている。
 朝日新聞の見出しは明らかなミスリードで、「我が国の領域や排他的経済水域(EEZ)への弾道ミサイルの飛来は確認されていない」(防衛省)、大雑把に言えば日本が管轄する領域に弾道ミサイルが到達してはいないという内容なのに、あたかも発射された物体が弾道ミサイルでないことを防衛省、つまり日本政府が確認したかのように見える見出しになってしまっている。


  NHK出身のジャーナリスト・堀 潤さんは、この「飛翔体」という表現について、
というツイートを受けて、

とコメント付きでリツイートしている。確かにメディアはこれまでも「飛翔体」という表現を用いており、元ツイートにある「前回の発射からマスコミ全社一斉に「飛しょう体」と呼称し出した」というのは語弊があると言えそうだ。しかし、元ツイートが主に指摘したいのはそこではないだろう。
 メディア各社がどうやって発射された物体を「ミサイルと確認」するのかと言えば、それは主に政府の発表に従っているはずだ。勿論他国当局が軒並み「ミサイル」と断定しているのに日本政府だけが「飛翔体」と言い張っているとか、国内の専門家らが口を揃えて「ミサイル」と断定しているのに政府だけが「飛翔体」としていれば、メディアも政府の見解に対して懐疑的な表現を用いるだろうから、日本政府の完全な言いなりになってしまっているとまでは言えないが、メディア各社が独自にミサイルか否かを確認するような手段を持ち合わせておらず、 政府機関以外にそのような調査を迅速に出来る組織というのも見当たらないので、メディアは概ね政府発表を基に「ミサイル」と呼ぶか「飛翔体」とするかを決めていると言えるだろう。
 現在の日本政府へは、文書改ざん、統計不正、そしてそれらへの杜撰な対応などによって不信感を持つ者は決して少なくない。つまりそのような者の視点では、誠実な見解を示すとは言いがたい、都合によって恣意的な見解を示す政府が、発射された物体をミサイルと断定せずに「飛翔体」としていることに準じて、「飛翔体」とメディアが報じれば、そのメディアの姿勢にも不信を感じるということだ。
 勿論根拠もなく「ミサイル」と書くわけにもいかないことは理解しているし、メディアが政府発表だけを基に「飛翔体」と表現していると断定はできないが、実態として日米韓政府の発表、特に日本政府の見解を踏襲した表現をせざるを得ないのが現実で、結果としてメディア報道に政府の思惑が反映されていることに違いはない。

 およそ1年半前まで、首相は北朝鮮が何かを発射する度に「対話でなく圧力」「断固とした姿勢で臨む」などの発言を繰り返していたが、今回の発射については強気な態度はなりを潜めている。これまで首相は対北外交について「対話の為の対話は意味がない」と言い続けていたのに、何故か北朝鮮が「飛翔体」を発射しても尚「条件を付けず日朝首脳会談を目指す」(日経新聞)と言い出し、官房長官がそれを「方針転換ではない」と主張する(テレビ東京)という状況にある。
 首相や政府の対北外交について対話を目指すという方針転換は寧ろ望ましいことだが、それに配慮してか、既に複数発射された物体は「ミサイル」という指摘があるにもかかわらず、「飛翔体」という表現に留めたり、明らかな方針転換を「方針転換でない」と主張するなど、言っている事にちぐはぐな部分が多い。そしてそれを会見等で追及しないメディア各社にも、国民の一部が不信感を抱くのはごく自然なことだろう。

 堀 潤さんは「なぜメディアが飛翔体という表現を用いるのか」という疑問に対して、「前回から」という部分にのみ反応を示している。その解答自体には誤った点はないものの、堀さんは論点をはぐらかしているようにも見える。まるでどこかの首相の国会答弁のようだ。彼は自身が出演する番組やツイッターでしばしば「議論しましょう」などと言うのだが、前述のツイッター上でのやり取りは適切な議論と言えるだろうか。自分にはそう思えない。


 メディア各社が用いる表現に関する疑問は他にもある。4/21の投稿でも触れたように、4/19に池袋で起きた交通事故を発端に、メディアが「容疑者」という表現を用いる基準にも疑問が呈されている。「容疑者という呼称は、逮捕や指名手配された場合に使用される」ということから、「なぜ池袋の事故のドライバーは逮捕されないのか、逮捕するべきだ」というような、逮捕があたかも懲罰かのような認識の主張も多く見られた。個人的には、逮捕されようがされまいが、交通事故を起こしたことにかわりはなく、事故を起こした嫌疑がかけられていることにも違いはないのに、逮捕されると呼称が容疑者となり、されなければ○○さんなどとなることに関して違和感を覚えるが、懲罰的な逮捕を求める声には一切賛同出来ない。
 しかし、警察やメディアは、池袋のドライバーは証拠隠滅・逃亡の恐れがないことから逮捕されなかったという見解を示しているが、その後起きたいくつかの同種の交通事故では、池袋のドライバーと比較して対応に差があったという報道がないにもかかわらず、事故を起こしたドライバーは軒並み現行犯逮捕と報じられており、逮捕するしないの基準が曖昧だとしか思えず、そんな曖昧なことを基準に容疑者と呼ぶかどうかが決まるということにも違和感がある。
 容疑者=逮捕された者という意味なのだとしても、メディアは警察発表に準じて、あたかも逮捕=ほぼ有罪かのように報道するし、逆に逮捕されない場合は、過失の可能性が高く、責任は薄いかのような報道をする。つまりメディア各社は容疑者=犯人ではないと言いつつ、実質的には容疑者を犯人扱いする報道が多いし、警察も懲罰的な意味合いで逮捕をしていると思える事案が少なくない。

 5/8に滋賀県・大津で発生した、幼稚園児の列のクルマが突っ込んで2名が死亡した交通事故で、警察はこの事故に絡んだクルマ2台のドライバーを現行犯逮捕したが、片方のドライバーは同日夜に釈放されたそうだ。このことをTBSニュースは「保育園児2人死亡事故、右折車の女「前を見ていなかった」」という見出しの記事の中で伝えた。


この記事の中に次のような表現がある。
 警察によりますと、乗用車を運転していた新立文子容疑者(52)が「前を見ていなかった」という趣旨の供述をし、軽乗用車を運転していた女性(62)は「右折してきた車を左に避けようとした」などと話しているということで、女性は8日夜に釈放されました。過失の程度が低いと判断されたとみられます
これではまるで、過失の程度が低いと釈放されたかのようだ。つまり、事故を起こしても過失の程度が低ければ現行犯逮捕しない、過失が大きければ逮捕するということになりかねない。逮捕されるか否かは過失の大小で決まるものではない。逮捕は証拠隠滅・逃亡の恐れがある場合、更に犯行を繰り返す恐れがある場合に行われるものだ。過失が大きければ逮捕拘束を続け、過失が小さければ逮捕しない、もしくは逮捕後釈放するのなら、それは逮捕=懲罰ということになってしまう。もし警察がまともな判断をしているのだとしたら、一方の女性が釈放されたのは、必要な事情聴取が終わり拘束する必要性が無くなったからだろう。その必要な聴取の結果過失の程度が低いと判断されたのだろう。決して過失の程度が低いと判断したから釈放したのではない筈だ。過失が小さくても証拠隠滅を図ろうとする者はいるだろうし、過失が大きくても証拠隠滅や逃亡の恐れがない者もいるだろう。
 それとも、警察関係者が実際に「過失が小さいから釈放」という旨の発言をしたのだろうか、若しくは、TBSはこの記事で「警察は懲罰目的で逮捕拘束をしている」と言いたいのだろうか。もしそうであるならば、もっと強くそれに対する疑義を示すべきだし、そんな逮捕拘束を根拠に「容疑者」と呼称するかどうかを区別するのも危険だ。にもかかわらず逮捕拘束に疑義を呈さず報じているのだろうか。


 「飛翔体」にしろ「容疑者」という呼称にしろ、メディア各社は「便宜上」そう呼んでいるに過ぎないという感覚なのかもしれない。その見解がもし本当に内部にあったとして、それが明らかにおかしいとまでは言えないが、受け手にどんな印象を与えるかをもっと考慮した方がよいのではないか。言葉・文章による表現を生業とする職業ならば、それを考慮して表現するのは当然のことではないだろうか。

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