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表現の不自由展・その後、権力者への揶揄・風刺はヘイトなのか


 長谷川 豊、丸山 穂高、そして安倍 晋三。昨今「表現の自由」の概念を正しく理解しない者が少なくない。その中には彼らのような政治家、大変残念なことに総理大臣までいる。また、所謂有識者や学者と呼ばれるような「知識がある」とされている者、更には作家や芸術家など積極的に表現活動に携わる者の中にもその種の人がいたりする。このブログでは、自分と主張や立場の異なる者・批判の対象についても、何かしらの敬称を付けて書くことにしているが、冒頭の3名については、誤った認識を開陳して「表現の自由」の価値を貶めた政治家(一部政治かぶれの似非政治家)への軽蔑の念を込めて、敢えて呼び捨てにした。
 「表現の自由」とは一体どのようなものか。Wikipediaの表現の自由のページ冒頭では次のように説明されている。
 すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利。外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由。個人におけるそうした自由だけでなく、報道・出版・放送・映画の(組織による)自由などを含む。


 表現の自由の価値が「表現の自由」という言葉の無思慮な濫用によって毀損されている、ということについては7/9の投稿でも書いた。
 一番よくある勘違いは「表現の自由とは、何でも自由に発言でき、何を言っても批判されない権利」という認識だ。長谷川 豊や丸山 穂高などはこのケースの典型例だ。彼らだけでなく「アホ、バカ」等の暴言を気軽に吐く維新の所属政治家らも同様だ。決して彼らだけの所為ではないが、彼らのような者が政治家となり、政治家としてそのように振舞うことによって、一般市民の中にも「政治家がやってるのだから、それで問題ない」と捉え、「他人に暴言を吐いたり差別や偏見を示すことも、表現の自由で認められた問題のない行為」と認識してしまう者が少なからずいるだろう。
 もう何度も何度も繰り返し書いているので「馬鹿馬鹿しいこと極まりない」という気分なのだが、表現の自由とは何を言っても許される権利ではない。誰かが表現の自由に基づいて行った主張を批判する権利も、表現の自由によって保障されている。だから決して「何を言っても批判されない権利」ではない。また、自由と責任はほぼ例外なくセットになっている。日本では、というか人権尊重を憲法等で定めた国や地域では総じて、表現の自由に限らず様々な自由が認められている。しかし、他人の自由や権利や尊厳を侵す自由は当然認められない。なので「アホやバカ、死ね」などの短絡的な暴言は基本的に、そして特に政治家が用いるべき表現ではない。また、差別や偏見を助長しかねない表現も基本的に許されない。つまり表現の自由の範疇にない。そのようなことはWikipediaの表現の自由#表現の自由の限界にもまとめられている。

 例に挙げた3名の中で、安倍 晋三だけは他の2名と「表現の自由」誤認の毛色がやや異なっている。
 2/13の投稿でも書いたが、衆院予算委員会で岡田 克也議員に「悪夢のような民主党政権」という発言の撤回を求められ、彼は「言論の自由がある。少なくともバラ色の民主党政権でなかったことは、まあ事実なんだろうな、とこういう言わざるを得ないわけであります」と述べた。言論の自由とは表現の自由を構成する要素の一つであり、特に口頭表現に関する概念だ。安倍も他の市民同様日本国民の1人であり、当然彼にも言論の自由は保障されている。しかし、岡田氏が「悪夢のような民主党政権」という発言の撤回を求めたのは、その発言の妥当性を疑問視したからであり、「言論の自由があるんだから問題ないだろ?」という趣旨の安倍の主張は、絶対的に不適切とまでは言えないものの、J-Castニュース「「取り消しなさい!」「なぜ民主党という名前を...」 安倍氏VS岡田氏「悪夢」論争の泥仕合」などを見れば分かるように、安倍は「悪夢の民主党政権」と評することの合理性を説明出来ているとは到底言えず、結局彼も長谷川や丸山同様に「表現の自由とは、何でも自由に発言でき、何を言っても批判されない権利である」、「アホやバカ、死ねみたいな短絡的な表現でないから問題ない」と言っているようにも見える。言い換えれば安倍は、「言論の自由があるんだから何言ってもいいだろ?」と言っているように見える。
 因みに、個人的には岡田氏も安倍と同じ様なレベルだったと思っている。結局彼も安倍同様に、「悪夢の民主党政権」という表現がなぜ不適切なのかを充分に説明できずに、感情的に「撤回しなさい!」という主張に終始してしまっていたからだ。少なくとも自分にはそう見えた。

 これだけだと「安倍も他2名と同じじゃないか」ということになるだろうが、安倍が「言論の自由」を自身の主張の正当化に持ち出したことへの違和感は他にもある。前段でも書いたように、安倍もまた日本国民の1人なので彼にも表現の自由は当然保障されているが、しかし一方で今の彼は総理大臣、つまり日本一の権力者でもある。
 表現の自由とはどのようにして生まれてた概念だろうか。表現の自由の源流は17-18世紀ごろにある。イギリスの名誉革命や権利章典、アメリカ独立宣言・フランス革命における「人および市民の権利宣言」などによって確立した。つまり表現の自由とは、王政や教会等権力に対する抵抗の過程で生まれた民主主義の礎となる概念で、市民が出自や階級に捉われず、自分たちで社会を作り上げていく為に必要となるのが、権力に縛られない自由な思想・主張であるという考え方がその根底にある。
 安倍は確かに1人の日本国民でもあるが、彼は同時に日本の総理大臣・つまり最高権力者でもある。果たして最高権力者が言論の自由を理由に「何を言ってもいいだろ?」的な発言をすることに妥当性があると言えるだろうか。個人的には、表現の自由の成り立ちを考えれば、それは決して妥当な主張とは思えない。寧ろ軽蔑・否定すべき主張だとさえ思える。つまり安倍には適切な「表現の自由」に関する認識が欠けている恐れが高い。


 数日前から愛知県で開催中の「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が話題になっている。慰安婦被害者を再現した「平和の少女像」や、労務動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」、昭和天皇の御真影が焼かれたように見える「焼かれるべき絵」が展示されている。次の画像は公式サイトに掲載されている出品作品だ。


公式サイトよれば、この企画展の趣旨は、
 「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。
である。噛み砕いて言えば、様々な理由によって展示の機会・発表の場を奪われた作品を集めて展示することで、果たしてそれらの作品の排除に妥当性があるかどうかを、閲覧者にそれぞれ考えてもらう、のが企画の趣旨だろう。主催者の認識とは少し異なる点もあるのかもしれないが、個人的にはそう認識している。

 「慰安婦像などを並べる「表現の不自由展」に批判殺到。市長は中止要請へ」(BuzzFeed Japan)などが報じているように、愛知県とともにトリエンナーレに共同で出資している名古屋市の河村 たかし市長は、8/2に現地を視察し「少女像」の展示を中止するよう求めた。また、「芸術祭に慰安婦問題象徴の少女像 補助金を慎重検討 官房長官」(NHK/スクリーンショット)によれば、菅官房長官は記者会見で
『あいちトリエンナーレ』は文化庁の補助事業として採択されている。審査の時点では、具体的な展示内容の記載はなかったことから、補助金の交付決定では事実関係を確認、精査したうえで適切に対応していきたい
と述べたそうだ。NHKは「補助金を慎重検討」などとしているものの、事実上「補助金を打ち切ることも有り得る」と圧力をかけた格好だ。
 同じく8/2に、「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督を務めるジャーナリストの津田 大介さんは同事案についての会見を開き、
 行政がこの展覧会の内容について「どんな内容なんだ」「実際できあがったものを見せろ」みたいな話になって、隅から隅まで口を出して、かつ行政としてこの表現は認められないというかたちで仕組みにようになってしまうと、それは憲法21条の「検閲」に当たるという、まったく別の問題が生じてしまうと僕は考えています
と述べた(ハフポスト「「少女像」展示、どうなる? 実行委で検討へ。芸術監督・津田大介氏が会見(声明全文)」)。
 因みにNHKも津田氏の会見を「芸術祭に慰安婦問題像 「テロ予告や脅迫ともとれる電話も」」(スクリーンショット)という見出しで報じている。しかし、この記事は当初「「あいちトリエンナーレ」慰安婦問題少女像 展示の変更も」という見出しだった。次のスクリーンショットは、変更される前に自分が同記事をシェアしたツイートである。


変更前の見出しではまるで、津田さんが展示の不備を認めて展示内容の変更を検討しているかのようだが、明らかにそのニュアンスは実状と乖離している。津田さんは、テロ予告や脅迫とも取れるような電話もあり応対した職員が追い詰められているので、職員や展示会の閲覧者の安全を考慮して、やむを得ず変更せざるを得ないかも、というニュアンスで語っている。記事には見出しを訂正した旨の説明もなく、いつのまにかシレっと見出しが修正された。このような記事の内容と乖離した見出しを平気で掲げ、批判されるとシレっと修正するようだから、「NHKをぶっ壊す」を連呼するだけの粗暴な党が100万弱もの票を集めてしまうのではないだろうか。

 同企画展が槍玉に上がっているのは慰安婦少女像だけが理由ではなさそうだ。実際には同企画展に出品されていない、安倍晋三首相と菅義偉官房長官とみられる人物をハイヒールで踏みつける「Eat this sushi, you piece of shit」と題した作品が、同企画に展示されているというデマも広がっている(ハフポスト「あいちトリエンナーレが「安倍首相をハイヒールで踏む作品を展示」というデマ情報が拡散」)。
 このデマを受けて、元経産官僚でテレビ等でコメンテーターなどとして活動している宇佐美 典也さんは、


とツイートしていた。因みに最早嫌韓を煽るだけの存在に成り下がってしまった作家の百田何某も同様のツイートをしている。
 その後宇佐美さんは、彼が挙げた例がデマであると指摘され、


などとツイートしている。昭和天皇の肖像を焼く表現がヘイト表現だったと仮定すれば、「津田がおかしなことをした」という表現にも妥当性はあるだろう。しかしだからそれを理由に勘違いで謝る筋合いがないと言うのなら、津田さんも批判される筋合いはないことになりはしないか。現在日本で有識者とされるような者のレベルは、勿論全員がこのレベルということではないが、この程度であると言わざるを得ない。この程度の認識でも元経産官僚という肩書等があれば有識者としてテレビ番組にコメンテーターとして呼ばれているのが現状だ。
 前段のような事案からNHKが、そしてこの段のような話からテレビ全体がその評価を下げるのは当然の成り行きに思える。「テレビが」という括りは大雑把過ぎるような気もするが、どの局にも多かれ少なかれ似たような傾向が感じられる為、この話を根拠に「テレビが」とした。

 イスラム思想研究者・アラビア語通訳の飯山 陽さんもこの件について次のようにツイートしている。


 この短いツイートだけでは、彼女が一体何をヘイトとしてこのツイートをしているのか定かでないが、もし彼女が、昭和天皇の肖像を焼く表現や安倍氏や菅氏をヒールで踏みつける表現をヘイトだと認識しているのだとしたら、彼女の主張に妥当性があるとは思えない。
 政治的な表現の一つに「風刺」という手法がある。風刺の概念についてはWikipediaなどで確認して欲しい。例えば、権力者を揶揄する表現は定番の風刺表現と言えるだろう。トランプ米大統領を揶揄するのが目的の、赤ちゃんトランプの巨大風船などはその典型的な例だ。



 権力者を揶揄する表現をヘイトとするなら、天皇の肖像を焼く表現も首相らをヒールで踏む表現も、そしてこの赤ちゃんトランプ風船も、全て単なる個人攻撃で不適切な表現ということになるだろう。確かにそれが権力者であっても、過剰に人格否定するような表現は好ましいとは言えないかもしれない。しかし、それを「ヘイト行為」認定し排除してしまうことには大きな弊害もある。それを是とすれば、権力者たちは都合の悪い自分への批判を「ヘイト」であるとして排除し始めかねないからだ。
 つまり、揶揄を好まない人が「好ましくない」と表明するのは何も問題のないことだが、権力者への揶揄を不適切だとして排除する行為は絶対に認めるわけにはいかない。権力者への揶揄を一般人への揶揄と同列に捉えることは明らかに間違いである。自分も過剰な揶揄は好ましいと思わないが、排除が正しいとは全く思わない。
 飯山さんの考えは定かでないが、権力者への揶揄をヘイトだとする学者や有識者も、少なくとも日本には相応に存在している。勿論中には本当に優秀な人もいるが、日本の政治家・学者・有識者なんて、実際には一般市民と大差のないレベルの人達ばかりだ。昨今しばしば芸人風情が、モデル風情が政治の話にしゃしゃり出てくるななどと、実際には政治的な意思表示ではなく、政権への批判だけを攻撃する風潮があるが、そのようなことを勘案すれば、それが如何に妥当性の低い話か分かるだろう。適切な認識を持った一般市民・芸人・モデルもいれば、適切な認識も持たずに政治家・学者・有識者になれる者もそれなりにいる。
 前述のBBCのムービーの37秒ごろに、赤ちゃんトランプ風船の浮遊を許可したロンドン市のサディク カーン市長の「平和的で安全であれば(許可する)私は検閲官にはなれない。センスの良し悪しを判断する立場にない」というコメントが出てくる。どこの記者でも構わないので、それを日本の名古屋市長にどう思うのか是非聞いてもらいたい。


 日本の表現の自由が危うい、ということについては、7/9の投稿「果たして今、日本の言論の自由は維持されているのか」でも書いた。1か月も経たずに同じ危惧を再び、しかもこんなに長々と書くことになるとは思ってもみなかったが、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は、このようなことを再確認する機会を作ったということ、様々なメディアがそれを取り上げている点(但し現時点では、テレビではそれ程取り上げられていない。以前は、テレビは情報量で新聞に劣るが即時性で優れていると言われていたが、ネットに比べて即時性で劣るのは当然のこと、今では新聞にも即時性で劣るような状況だ)で、既に成功したと言えるのではないだろうか。
 7/31の投稿で書いたように、2019年参院選にて、重度の障害を持つ舩後 靖彦さんと木村 英子さんが当選した。彼らが当選したことによって参議院本会議場のバリアフリー化工事が行われたり、厚労省が就業や就学の際のヘルパーについて公的補助の対象外としていることなどが注目されたり、彼らは初登院以前から既に議員としての役割を果たしている。「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」も、美術展なので見に来てもらうことが本来は最大の目的なのかもしれないが、自分のように地理的な理由によって見に行く余裕がない人にも、表現の自由について考える機会を与えているという意味では、万が一今後圧力によって展示物が撤去されたり企画展自体が途中で中止になったとしても、舩後さんや木村さんらと同様に企画展を開催しただけで既に成功したと言えるのではないだろうか。

 追記:
 「表現の不自由展」中止に。慰安婦を表現した少女像めぐり抗議殺到 あいちトリエンナーレ(ハフポスト/朝日新聞)
 愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の実行委員会は3日、企画展「表現の不自由展・その後」の中止を決めた


 トップ画像は、João GalhanasによるPixabayからの画像をトリミングして使用した。

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