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SNSにはうんざりさせられることも多いが…


 Twitterは、おおむねユーザーが楽しく集う社交の場だった。
BuzzFeed Japan「リツイート機能の生みの親、後悔を語る」の中の一節だ。これはTwitterに限らずSNSのアーリーアダプターがよく言うセリフだ。これまでに何度も同種の話を聞いた。
 自分がTwitterに最初のアカウントを登録したのは2007年10月、Facebookは2008年10月、Instagramは2011年10月だ。因みにTwitterのサービス開始は2006年7月、Facebookの一般開放は2006年9月(日本語サービス開始は2008年)、Instagramは2010年10月(日本語サービスは2014年2月)である。単に自分が新しい物好きで、テック系ブログ等で話題になるサービスはとりあえず登録して覗いてみる性質なので、どのSNSへも黎明期と言えるであろう時期に登録している。
 今当時を思い出してみると、どのSNSも黎明期は今より確実に牧歌的だった。


 どのSNSも黎明期は今よりも牧歌的だったのは間違いないが、その感覚には所謂思い出補正の側面もある。7/13の投稿「SNS投稿やYoutubeに思慮に欠けるコメントをする人は…」で、対面して言えないようなことは、例え自分も相手の顔も実名も分からないネットやSNSでも決して言ってはならない、ということについて書いたが、当時のSNSにもそのような者は少なからず存在した。2000年代と言えば巨大掲示版2ちゃんねる(現5ちゃんんねる)の全盛期で、その影響を受けた者の中には、ネットでは上から目線で斜に構えるのが当たり前の流儀と思っている者も多く、それをSNSへ持ち込む輩もそれなりにいた。
 というか、2ちゃんねるが流行る以前の各種掲示板やチャットルームにも、しばしば所謂荒らし行為に及ぶ輩は現れたし、つまり、SNS以前から見ず知らずの相手に心無い言葉を浴びせる者は存在していた。だから「当時は牧歌的だった」という話は、ある種の思い出補正がかかっていることは否めない。

 しかしそれでも「今より」牧歌的だったことには違いない。Facebookが所謂学生交流サイトとして誕生したこと等に代表されるように、SNSは元来現実での人間関係を補完する為の仕組みとして登場した。だからSNS上で交流する人の多くは面識のある人が多かったし、面識のない人でも面識のある人から広がった繋がりが殆どだった。TwitterやInstagramには当初からネット上だけの繋がりを促進する部分もあったように思うが、それでも、少なくとも自分の周辺は、面識のある人+アルファの中で利用する人が殆どだった。


 この数年、SNSを見ていると、とても嫌な気分にさせられる投稿もそれなりに目に入ってくる。例えば昨日は、昨日の投稿 / 一昨日の投稿で触れた「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」、そこに出品されていた所謂慰安婦少女像の展示は排除されるべきなのかについての話であろう


というツイートがタイムラインに表示された。
 彼がベトナム少女像と言っているのには、ベトナム戦争下での韓国軍の蛮行やライダイハン(Wikipedia)の問題が背景にあるようだ。しかし実際に、韓国・済州島に少女像が設置されたが(ハンギョレ新聞「「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる」)テロも未遂も起きていない。この手のいい加減な誤認、というか恐らく誤認を装った故意のレッテル貼りを見せられると、とても嫌な気分になる。
 これは、世界中の人は皆自分と同じ了見の狭い人間という恥ずかしい思いこみだ。「韓国は」という大雑把な括りでこのような嘘を主張し、韓国の評価を不当に下げようとするの本当にやめてほしい。結果として日本人全体が嘘付きと思われかねず、日本の評価を下げかねない。日本の評価が下がると彼には何かメリットでもあるのだろうか。
 また、次の私のツイートに対して、



とリプライしてきた者がいる。
 ハフポスト「“表現の不自由展”中止へ。大村知事、京アニ放火事件を意識したことも明かす【あいちトリエンナーレ】」には、「(管轄の)東警察署とはすでに情報共有して対応しております」という、 表現の不自由展・その後の中止を発表する記者会見での愛知県知事の説明が掲載されている。実行委等が政府や警察に対応を依頼していないというのはどこからの情報か?というリプライをしてみたが、その後彼から音沙汰はない。
 それどころか、そのリプライの後も同様のツイートを繰り返している。


つまり、彼は思い込みで「実行委等が政府や警察に対応を依頼していない」と言っているのでなく、わざとそのような嘘を吹聴して回っているということだろう。
 このような行為を見せられて、同種の人間以外に果たして嫌な気分にならない者がいるだろうか。厳密に言えば同種の人間以外にも嫌な気分にならない、何とも思わない者もいるかもしれないが、他人が不当にレッテル貼りをされているのに無関心でいられる人は、将来自分が不当にレッテル貼りをされた時に周囲が無関心だったらどう思うか、をよく考えた方がいい。


 Facebookに関しては、雑な運営に信頼が持てなくなり、2015年頃から既に殆ど使っていなかったが、今年の春に「典型的な頭おかしな親」という投稿を、問題のある投稿として運営に報告したところ、コミュニティ規定で違反とされる「人格をけなすコメント」に相当しないという判断を示され、

それで完全に使用を止めた。Instagramはユーザビリティが悪くなったと感じた日本語サービス導入頃からあまり使用しておらず、現在自分が日常的に使用しているSNSはTwitterだけだ。

 嫌な気分にさせられるツイートを見たくないなら、そもそもSNS使用を控えたり、そのようなツイートを排除できるようにフォローするアカウントを調整したり、フォローしている人のツイートしか表示されないように設定するか、ミュート機能やブロック機能を活用したらいい、という声もあるだろう。しかし、SNSを完全に遮断することは、現代社会では防災やニュースのソースを減らすことになるなど、様々な弊害が多く現実的とは言えない。また、表示されるツイートを自ら選別することは、自分の見たい投稿しか見ない・見えない状況を自ら構築することでもあり、ただでさえWebやSNSは自分の好みに合わせた情報が表示されやすい傾向なのに、それを促進させる、つまり偏った考えに陥りやすい状況を自らつくることにもなりかねない。自分はそれを好ましいとは思えないので、そのようなことはせずに嫌な気分にさせられるツイートも表示される状況を維持している。

 前にも書いた話ではあるが、SNS以前、ネット普及以前も、見ず知らずの人に対して短絡的に喧嘩をふっかける人は少なからずいたし、いい加減なことを吹聴して回る人もいた。しかしそのタイプの人達は確実に少数派で、実社会では周囲から白い目で見られることが多く、それがその手の主張の抑止力となっていたが、ネットの普及やSNSの普及により、そのタイプの人がお互いを見つけやすくなり、絶対数は少ないが同士を認識することで増長するようになり、抑止力が働き難くなったのが今の状況だろう。

 冒頭で紹介した記事の通り、Twitterのリツイート機能は情報拡散力の向上をもたらした。リツイートに相当する機能のないInstagramは、Twitter程おかしな情報が回ってこない(現在日常的にInstagramを使っているわけではないので、もしかしたらそれは自分の思い込み・思い出補正かもしれないが、少なくともTwitterよりマシなのは事実だろう)。そのような意味で言えば、Twitterのリツイート機能によって、
 地獄の扉が開かれ、混沌が広がった同記事より)
と言えるかもしれない
 しかしリツイート機能がなくても、例えばFacebookなどにあるコミュニティ機能によっても同じ状況は生まれるだろうし、投稿の検索機能があれば、少数派でも容易に同種を見つけることが出来るのは、その手のタイプの人達やSNSに限った話でもない。つまりSNS、というかWeb自体が地獄の扉を開いたと言えるかもしれない。
 但し、そのような負の側面ばかりに目を向けるのは大きな間違いだ。リツイート・SNSのコミュニティ機能、SNSやWebの検索機能などによって、彼らのような好ましいとは言えない少数派だけでなく、ネット普及以前に虐げられてきた少数派もお互いを見つけ団結しやすい状況になった。つまりどの機能も、銃のようにほぼ何かを殺すだけのための存在ではなく、包丁のように適切に使えば便利な道具、不適切に使えば凶器になるような、2面性を有している存在であることは頭に入れておかなくてはならない。


 トップ画像は TumisuDanaTentisによるPixabayからの画像を組み合わせて加工した。

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