小学校の頃、先生に”が”には「GaとNgaの2つの発音がある」と習った。「私が」の”が”、つまり助詞の”が”はNga、それ以外の”が”は概ねGaと発音すると教わったと記憶している。自分がそう教わったのは1980年代の後半なのだが、同年代に聞いてみても教わっていない人の方が多い、というか殆どの人はそれを知らない。
Googleで検索してみると、Ngaは鼻濁音と言うのだそうだ。”が”以外にもガ行全般にこの鼻濁音があるらしい。これについては「[鼻濁音]マジで衝撃っ! 日本語に2つの「が」があったなんて!? | ヨッセンス」で詳しく解説されている。そのページに解説はないが、自分は「が:Ga」は音が強く攻撃的なので、よく用いられる助詞の”が”は、印象を柔らかく上品にする為に「が:Nga」と発音する、と教えられた(正しい説かどうかはよく分からない)。
日本語に限らず言語は時代と共に変化する。5/4の投稿でも紹介したように、平安時代に既に「日本語の乱れ」を清少納言が嘆いている。今では広く用いられている平仮名も、その起源は7世紀ごろに使われ始めた万葉仮名にあるが、現在の形式になったのは明治時代以降のことだ。しかも、明治から太平洋戦争以前にかけては仮名として主にカタカナの方が用いられていた。明治以降にもひらがなに変化はあり、例えば”ゐ:Wi”や”ゑ:We”は”い”と”え”に統合され、今では殆ど見かけることがなくなった(平仮名 - Wikipedia)。
日本在住の中国人女性がこんなツイートをしていた。
ってか、嫌いな日本語がある!— 夏子の冒険 (@Natsupiang) October 11, 2019
きずづく?きずつく?きづく?きずつける?
ひきつづき
引きつぐ
ずずづづつつわけわからん!
大嫌いいいいいいいい💔
確かに”づ”と”ず”の使い分けは難しい。日本人にも適当に使い分けられない人は多い。同じ用法で濁音にならない場合”つ”なのか”す”なのかを考えれば、若しくはタイプして変換できるかどうかで確認すれば大抵判断が出来るが、例えば「1つずつ/1つづつ」のようにそれでもどちらがより適切かを判断できない場合もある。いろいろ検索してみると、概ねどちらも間違いではないが、現代的仮名遣いでは「ずつ」を優先しているらしく、「づつ」は歴史的仮名遣いであるとしている場合が殆どだ(例:「少しずつ」と「少しづつ」ではどちらの書き方が正解で誤りか ~「ずつ」と「づつ」の違い | コトバノ)。この「づつ」が「ずつ」に変わったという話を勘案すれば、”ゐ”が”い”に、”ゑ”が”え”に統合されたように、”づ”も将来的には”ず”に統合されるかもしれない。
日本人でも日本語を正しく理解しているとは限らない
ということを再確認させられる話は他にもある。「日本郵政・鈴木副社長、NHKへ「圧力をかけた記憶は毛頭無い」衆院予算委 - 毎日新聞」などはその典型的な例だ。この事案はまだ実態が確定したとは言えないので、断定することはまだ出来ないが、日本郵政の副社長は「圧力をかける」という表現の意味を捻じ曲げて、つまり適切とは言い難い定義で用いることによって、「圧力をかけた記憶はない」と言っているように思えてならない。
他にも同様の例は多く、例えば10/4の投稿で取り上げた、「愛媛県警松山東署が松山市の20代女性を窃盗容疑で誤認逮捕した問題」に関する調査委結果として、県警が示した「取り調べの過程で尊厳を著しく侵害するとともに、ことさら不安を覚えさせ、また困惑させかねない言辞(言葉遣い)があったことも確認された」と不適切な取り調べを認めた一方で、「自由な意思決定を阻害する、とまでは認められなかった」という見解も、「自白強要」の定義をかなり低く見積もることによって示された判断としか思えない。
この手の恣意的な解釈による言い逃れ横行の元凶は安倍首相にある。そう断言して差し支えないと考えている。根拠とする事案は枚挙に暇がないのだが、例えば、2/15の投稿で書いたように、「非協力的」という表現の定義を都合よく拡大したり、公約を一方的に変更することについて、公約を守れなかったことを詫びるでもなく、公約を破りを「新しい判断」と定義したり(消費増税の再延期、安倍首相が表明 「これまでのお約束とは異なる、新しい判断だ」 | ハフポスト)、更には、選挙や投票の結果を恣意的に解釈し、自分の都合に合っていれば、多数の得票を得たことで「信を得た/理解を得た」とする解釈を披露するのに、自分にとって都合が悪ければ多数の得票で示された民意でも無視をする(7/23の投稿)。
国のトップがこんなことをしていれば、強引な解釈による言い逃れが横行するのも当然だろう。犯罪行為に対してなぜ罰が科されるのかと言えば、勿論罪を犯した者への懲罰の意味合いもあるが、罪を犯した者に責任を取らせ、やってはならない行為と周囲に認識させる為でもあるだろう。子は親の鏡と言うように、子供は悪いことであっても一番身近な大人である親がそれをやっていれば、「やってもいいこと」と認識して真似をするようになる。国のトップが恣意的・強引な解釈による言い逃れを行い、それについて責任をとらず繰り返すようならば、それを見た国民の一部が「それでいいんだ」と認識し真似るようになるのは、決して好ましくはないが自然な成り行きだろう。
恣意的な言葉の解釈/強引な解釈を頻繁に展開する安倍氏は、日本語の破壊者とも言えそうだ。前半でも書いたが、日本語に限らず言語や表現は時代と共に変遷していくものなので、変化すること自体は決して悪いことではないのだが、恣意的な解釈や強引な定義が一般化してしまうと、人によって勝手な定義が出来るようになってしまい、言語表現によるコミュニケーションそのものが成立し難くなるという事態にもなりかねない。
9/5の投稿で書いたように、恣意的な解釈による濫用によって、既に有効性を失いつつある日本語表現、元の意味とは反対の意味が増えてしまいそうな日本語表現が複数ある。それは変化でなく破壊と呼んでもよいのではないか。SNS上には、自分勝手な定義を披露する日本語が通じない日本人が明らかに増えている(その典型例と合致する、2ちゃん発祥の「詭弁のガイドライン」が再び話題になっている)。