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犬猫びいきの動物愛護感


 BuzzFeed Japanは6/17に、動物愛護・虐待に関連する英語版からの翻訳記事、


の2つを掲載した。前者は犬・中学校の科学の教師が、生徒の前でカミツキガメに子犬をエサとして与えたとして、動物虐待の容疑で起訴されたという話、後者は猫・アメリカの研究機関で子猫が実験動物として殺されているという話だ。何気なく読んでしまうと「子犬・子猫が可哀そう」という印象だけを抱くだろう。自分も、全くそのような印象を抱かないわけではないが、そのような印象しか抱けない人は、ある一点でしか物事を捉えていないようにも思える。


 自分はこれまでにも、


など、動物愛護感・虐待に関連する投稿を書いてきた。それらを読んで貰えれば分かるだろうが、冒頭の記事で取り上げられた案件について、必ずしも動物を蔑ろにしているとは言えないのではないか、と感じている。

 「彼のしたことは動物虐待? 生徒の前で亀に子犬を食べさせた教師が起訴された」に関しては、ライターも見出しで動物虐待?とやや疑問を示しているものの、記事によれば、「子犬をカミツキガメに餌として与えたことは虐待に当たる
、そんな残酷な事を子供に見せるのも不適切でどうかしている」などのような見解の方が優勢であるようだ。
 子犬を餌としてカミツキガメに与えた事が虐待かどうか、判断が分かれることなのは理解する。しかし記事よれば、そのカミツキガメは現地・アイダホ州では外来種に指定されていたので殺処分されたとのことだ。カミツキガメを殺処分に
関して虐待だと非難する声が上がっているという記述は文中にはない。ライターが書き漏らしたか、もしくは意図的に書いていない恐れもあるが、彼が記事に掲げた見出しから判断すれば、そのような恐れは低いだろう。要するに、子犬を餌としてカミツキガメに与えることは虐待だが、カミツキガメを殺処分することは虐待にはならないという認識が大勢を占めているということなのだろう。
 例えば、学校の教室でカマキリを飼っていて、先生がカマキリの餌として捕まえてきた、生きているバッタをカマキリの飼育箱に入れ、捕食する様子を生徒に観察させたら、バッタを虐待したと言われるだろうか。動物虐待容疑で起訴されるだろうか。もしそんなことになるのなら、肉食の生物を飼育すること自体、餌になる生物を虐待しないと不可能なので、動物園だろうが研究施設だろうが、勿論学校だろうが、一切肉食生物を飼育できなくなりそうだ。というか、植物だって生物だ。草食動物に牧草などを食べさせたら、植物を虐待しているとして起訴されるだろうか。少し極端な話をしているかもしれないが、「”子犬が”可哀そう」という感情的とも言えそうな視点から少し距離をおけば、本質的には餌を与えるなという話になってしまうと考える。
 また、肉食動物の捕食は子供に見せるべきでない残酷なもの、という感覚にも全く賛同出来ない。そう考えるなら、乳製品を除いて子ども一切動物性たんぱく質を与えるべきではないのではないだろうか。肉も魚も卵も人間が、他の生きた動物を捕食している行為に他ならない。肉や魚を食べる事自体が既に残酷なことでもある。肉食獣の捕食を見せるべきでないなんてのは、残酷なことから目を背けているだけだ。

 「政府機関研究所で殺され続ける何百匹という子猫」という記事のライターは、猫が実験動物にされていること、実験に活用された後は状態に関わらず殺処分されていることに言及し、確実に批判的な論調で記事を書いている。自分も記事を読んだ感想として、実験動物の扱いに関して改善が必要かもしれない、と部分的には感じた。しかし実験動物を用いた研究全般が不適切だとは思えないし、この記事で取り上げたのがもしネズミ、要するに実験用のマウス・ラットなどだったら、記事が訴えている実験動物の扱いに関して疑問を感じる人、実験動物のネズミが可哀そうと感じる人は、猫の場合に比べたら減るだろうと推測する。
 勿論マウスやラットを含めて実験動物に関して疑問を呈している人達がいることも知っている。ただ、この記事では猫についてしか言及していないので、自分は「猫」だから可哀そう、「猫」を実験動物にするなんて不適切だ、とライターは言いたげだという印象を抱いてしまう。

 犬猫は確かに人間に最も近い、最も身近な動物であることは間違いない。しかし、これまで何度も書いたが、犬も猫も、牛も豚も鶏も、そして実験用のネズミも同じ動物だ。どうも一部の人の動物愛護感、特に欧米発の愛護感には、主にペットとして存在している動物を、他の動物とは別物として扱うような感覚が存在しているように感じる。人間の為なら、他の生物をどのように扱っても構わないなんて感覚には自分も賛同出来ないが、逆に犬や猫を特別視し過ぎるような感覚にも全然賛同できない。
 そのような、過度な犬猫至上主義のような感覚持つ人を見ていると、それは白人だけが優先されるべきであると考えている、白人至上主義者などと似たような感覚であるように自分には思えてしまう。

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