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岸田政権、憲法無視を宣言

 なし崩しに憲法を形骸化させようとする人たちがいる。自民党だ。正確には自民党と連立を組む公明党、そしてその与党に迎合する維新などの政党、そしてその支持者たちだ。現在の防衛大臣である岸 信夫は、2/16の国会における答弁で、相手国領空での爆撃を「排除しない」と述べた。

相手国領空での爆撃「排除しない」 敵基地攻撃能力を巡り岸防衛相が明言:東京新聞 TOKYO Web

 日本は太平洋戦争の敗戦後、それまでの大日本帝国憲法をあたらめ、日本国憲法を定めた。平和主義は、国民主権・基本的人権の尊重と並ぶ日本国憲法の三大原則である。その平和主義について書かれているのが日本国憲法第9条である。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 日本は戦後、戦力の不保持を定めた9条に従って、自衛隊の国外派遣を原則として認めてこなかった。自衛隊は実質的には軍隊であるが、専守防衛に特化した組織であり国外での活動は専守防衛を逸脱する、という姿勢だった。だが、1990年代初頭に湾岸戦争が勃発し、日本は金は出すが汗をかかない、という国際的な世論に押され、その頃から、非軍事的活動に限定した自衛隊の海外派遣が行われ始めた

 その後、1992年のカンボジア派遣、1996年のゴラン高原派遣、2002年の東ティモール派遣、2001年のアフガニスタン紛争に伴う派遣、2003年のイラク戦争に伴う派遣、20011年からの南スーダン派遣など、紛争地域における後方支援、人道的な支援活動、災害対応支援活動などとして、自衛隊の海外派遣は数多く行われている。

 それでも、1990年代から2000年代まで、勿論それ以前も含めて戦後全ての政権は、憲法9条は集団的自衛権の行使を容認していない、という姿勢だった。だが2014年に、安倍自民政権は、それを一方的に覆し、9条は集団的自衛権行使を容認していると解釈可能、と言い出した。これは安全保障関連法案を成立させる為の強引な解釈変更だった。

 安倍自民政権は、同時期に北朝鮮によるミサイル発射実験が活発化したことを受けて、新たな迎撃ミサイルシステム・イージスアショアの配備に向けて動きだした。今年に入ってからも北朝鮮によるミサイル実験が頻繁に行われているが、今とは比較にならない程、安倍自民政権(と大手メディア)は危機感を煽り、イージスアショア配備を進めようとした。だが、計画において杜撰な点が複数発覚し、イージスアショア配備計画は2019年頃に頓挫し、その代わりに前面に押し出され拡大し始めたのが、所謂敵基地攻撃能力の保持である。
 ただ、敵基地攻撃能力の保持は決して2019年以降に急に出てきた話ではない。2017年6/23の投稿で、このブログでもそれに触れている。

 防衛大臣 岸による相手国領空での爆撃を「排除しない」という発言の背景には、このような流れがある。順を追って考えれば、湾岸戦争によって、それまで原則不可だった自衛隊の海外派遣が出来るようになり、そして充分にその実績を重ねた後の2014年、今度は集団的自衛権は行使できる、という話になった。そしてそれから8年後の現在、自民政府は敵基地攻撃能力を欲しがり、防衛の為なら相手に攻撃される前に相手国を爆撃してもよい、と言い出した
 これは明らかに、なし崩しに憲法を形骸化させようとする行為、以外のなにものでもない。

 防衛大臣の岸だけがこんなことを言っているのかと言えば、決してそんなことはない。現在の首相である岸田も、岸の発言を否定していない。寧ろ肯定的な態度を示しているとすら言える。

野党、他国への空爆「明白な違憲」 過去の政府見解「禁止されている海外派兵」との矛盾追及:東京新聞 TOKYO Web

 更には、岸田は、敵基地攻撃能力という呼称を変更する姿勢も見せている。自民政権ではこれまで数々の言葉遊び・恣意的な言い換え・印象操作が繰り返されてきた。岸田も同じ事をやろうとしている。前首相の菅も、同じ様に敵基地攻撃能力を自衛反撃能力などに改称しようとしていた。そもそも敵基地攻撃能力も先制攻撃の実態を矮小化した表現なのに、更に歪曲しようとしているのだ。先制攻撃を自衛反撃と言い換えるなど、まともな人間の思考では考えられない。虐待や暴力を、相手の為になるしつけだ、と強弁するのと同じことだ。正気の沙汰ではない。


 付け加えると、岸田政権、憲法無視を宣言、と報じないメディアに存在価値はあるだろうか。憲法違反に当たるか司法判断が示されていないから無理? そんな呑気なことを言っている場合ではない。前述したこれまでの経緯に鑑みれば、なし崩しに憲法を形骸化させようというのは明白だからだ。
 東京新聞は、これまでに社説などで敵基地攻撃能力の保持に対して強い不信感と憲法違反の懸念を示してはいるものの、紹介した記事では、あくまでも「野党が、憲法違反だ、過去の政府見解と矛盾している、と言っている」という論調でしかない。他の新聞も同様か、若しくは懸念を全く示さないような状態であり、政治だけでなく報道も充分に異様な状態である。


 参考までに、これまでに書いた関連投稿を掲載しておく。


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