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「メディアが報じない○○」がメディアで報じられない理由


 「マスコミが報じない○○」「メディアが報じない○○」。最近、特にネットでよく目にするフレーズの一つだ。場合によっては「マスコミが報じない ”本当の” ○○」などと更に、マスコミは本当の事を報じない、と強調したフレーズになっている事もある。確かに自分も、何で大手メディアはこれをもっと報じないの?と感じる事もあるし、逆に何でこんな事が優先して報じられているの?と感じる事もある。また取り上げるべきだと感じる案件を報じていた場合でも、自分が重要だと思うのとは異なる切り口での取り上げ方をしていれば、実状が適切に伝えられていないのではないか?と感じる事もあるし、メディアが取り上げない事があるんだろうなと感じることもある。そんな風に感じられたことを、直近の投稿、
で触れ、メディアの伝え方に関する疑問などを書いた。


 メディア報道の中には疑問を感じるものもあるのは確かだが、しかし全部が全部間違い・嘘・恣意的と受け止めるのは早計ではないだろうか。勿論、組織によって報道姿勢は異なり、それぞれに信頼性が感じられると思える媒体・組織があり、逆に手放しでは信用出来ないと感じる媒体・組織があっても全く不思議ではない。しかしマスコミ・メディアと全てを乱暴に一括りにして「マスコミはー」「メディアはー」と論じるのは明らかに適切とは言えない。つまり「マスコミが報じない ”本当の” ○○」なんてのは単なる煽り文句であって、それこそ手放しで信用すると足元をすくわれる類の話だろうと自分は感じる。
 その手のキャッチフレーズで伝えられる情報は、眉に唾を付けて読まないとならないようないい加減な内容だったり、明確な根拠も示されていない単なる個人の思い込みだったり、つまり「マスコミが報じない相応の理由がある話」の場合も多々ある。つまり危なっかしくて取り上げられないような話だから、マスコミ・大手メディアで取り上げられていないだけということも多く、「マスコミが報じない”本当の”○○」と煽っているが、実際は取り上げてもらえないような雑な話というのが実態である事も多い。その手の煽りは、新聞やテレビ等の既存メディアを乱暴に卑下することで自分を持ち上げたいという思惑の見え隠れする、特にネット系メディアに多く見られる。

 今朝のMXテレビ・モーニングCROSSには、政策コンサルタントの室伏 謙一さんがコメンテーターの一人として出演していた。その日のコメンテーターらが、それぞれ1つテーマを掲げて論じるオピニオンクロスのコーナーで、彼は「不適切統計問題の本質は?」を題材にしていた。


 この時点で自分は、「不正」ではなく「不適切」とする室伏さんに既に懐疑的だったが、その後に続けられた彼の主張の乱暴さに更に驚かされた。彼は「この問題が語られる時によく出る議論」として、いくつかの論点を挙げて、それらを「全て的外れ」と一蹴した。しかも時間がないからとして「何がどう的外れなのか」についての説明は一切なかった。勿論、この件に関する主張の中には「的外れだな」と感じられるものもある。しかし室伏さんの主張も、まるで自分の見解以外全て的外れで自分が一番正しい、しかし他の見解がどう的外れかの指摘は全くしないという、過信のような側面が感じられ、「自分の見解以外全て的外れ」と言っていること自体が的外れ、であるという本末転倒さが垣間見えた。


そこでチャンネルを変えてしまっても良かったが、それでは批判すらできなくなるので彼の主張を最後まで聞くことにした。彼の主張のさわりだけを説明すれば、このフリップにもあるように、各種統計を統括する総務省・総務大臣の権限が足りていないこと、各省庁で統計を行う部門の組織的・構造の2点が問題だとし、
  • 統計を総括する総務大臣の権限強化
  • 各省庁で統計を行うのではなく、統計を専門に行う統計庁の設置
が問題解決には必要だという話だった。




 前述の的外れ云々という話を度外視すれば、彼の言っている事は理解出来る部分も多い。しかし、森友学園問題や加計学園問題や、働き方改革に関する裁量労働制拡大法案の議論、入管難民法改正案の議論の為に法務省が恣意的な解釈でまとめたデータが国会に提出された事などで、内閣人事局が各省庁の人事権を握った結果、つまり内閣の権限が強化された結果、官僚が政権に忖度するような風潮が出来上がり、不都合な情報の隠蔽、政権に都合のいい情報の捏造、情報の改ざんなどが起きているという指摘がある。懸案の不正統計問題に関しても、厚労大臣があまりにも杜撰な不正に関する調査結果を報告して幕引きを図ろうとした事を勘案すれば、統計庁を作って担当大臣の権限を強化しても、担当大臣やその上の首相などが明確に指示して、又は暗に示唆し、それを忖度した統計庁内で捏造・改ざん・隠蔽が起きてしまうかもしれない。寧ろ一元管理化することで、捏造も改ざんも、そして隠蔽もより起きやすい状況になってしまうのではないかと危惧する。
 つまり、不正統計は官僚と組織の問題、だと矮小化しようとしているとしか思えない室伏さんの主張には全く頷けなかった。矮小化しようとしている傾向は「不正」統計ではなく「不適切」統計としている事からも感じられる。

 この室伏さんの主張を受けた視聴者ツイートの中に、


があった。この人達がどんなニュアンスで「キー局では絶対出してこない」と言っているのか、一体何を以て「マトモな解説」としているのかは定かでないが、室伏さんの主張はまず「自分の見解以外全て的外れ」と言っている時点でかなり乱暴だし、しかもその上で諸刃の剣になってしまう恐れがある解決案を示していたので、自分には「そりゃ、取り上げられなくても当然の話」としか思えなかった。
 番組MCの堀 潤さんが、室伏さんのこの話に対して「野党からこの手の質問はあったのか」と聞き、室伏さんが「出てないです」と返答する場面があったが、前述のような懸念があるから野党側からその手の質問が出ないという可能性もある。また「いやー、中々明快でした」と番組内で絶賛し、番組後に

とツイートしていたのも違和感を感じた。確かに室伏さんの話は「分かりやすかった」ことに異論はないが、主張の冒頭で室伏さんが「自分の考え以外的外れ」という見解を示していた事への違和感を示さなかったということは、それも含めた上での絶賛なのだろうから、その1点だけでもかなり残念だ。堀 潤さんは常日頃から「大きい主語」で一括りにした話を展開することの不適当さを訴えている。その彼が室伏さんの「自分の考え以外的外れ」かのような、根拠も示さず一括りに他の見解を一蹴する論じ方を「わかりやすかった」などと評価したのは、とても矛盾しているとしか思えなかった。

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